コンテンツは”自分”が楽しむものである事をみんな忘れてね?って話

会社での世間話で「休日に何してるの?」「趣味は?」と聞かれた場合、素直に答えられる人はどのくらいいるだろうか。

私の場合、そんなに仲良く無い人には「筋トレ・アメフト」と答えるし、そこそこ仲良い人には「アイマスのライブっす!」と答えます。

このように伝える内容を相手によって変えるのは、社会人になって二次元コンテンツを追っていることをカミングアウトするのは一般的にウケが悪いと心のどこかで思っているから。

同じように「大衆ウケが悪い」と言う理由で、自分の好きなことをそのまま伝える事を躊躇う人が多いのではないでしょうか。

かといって「何もないです」と答えるのも印象が悪いので、「一般的ウケの良い」第二、第三の趣味を用意する

どんなものにも好きな人・嫌いな人は必ずいるので、無難な回答を用意しておくこと自体は問題のあることではないです。
(むしろこれが一般社会に必要なコミュニケーション能力だと思ってる)

何が言いたいかというと、一歩引いてコンテンツを見ることが常態化した結果、コンテンツを楽しむ時でさえ「他者から見てどう思われるか?」「他の人はこのコンテンツに対してどう思っているのか?」という目線で見てしまっているのではないか。

多くの人が、自分が新しいコンテンツに触れた時に、レビューサイトの評価を見たり、Twitterで他人と感想を共有したくなるものです。

今回のシャニアニ先行上映を見て、Twitterの TLを見ると「誰をターゲットにしているのか分からない」「初心者が見てこれ理解できる?」と言う意見をそこそこ見かけました

もっともな意見であると思います。

しかし、これは「"他者"が見てどう思うか?」と言う意見であり、「"自分"が見てどう思ったか」と言う意見ではない。

自分の自由な時間を費やすコンテンツは、本来100%"自分"が楽しむべきもの
(他人に迷惑をかけなければ、自分が楽しいと思うことを何でもやって良いはず)

本記事のようなnoteやイラストなどの二次創作物、コンテンツに対するレビューは、自己満足の場合もありますが制作意図の何割かは"他者"に向けたものが大半です

コンテンツを他人と共有することが楽しいことであるのは私も理解しています。

私が二次創作を始めたのも、「自分が良いと思ったものを他人に共有したい」「コンテンツを全く知らない人の入り口になって欲しい」と言う思いからです。

しかし、本来「自分」が楽しむはずのコンテンツに「他者」が締める割合が増えた結果、「他者」が楽しめないものであった場合「自分」も楽しめないものになってはいないでしょうか。

結局、自分が楽しまないと「趣味」とは言えません。

100人中99人が面白いと思わなくても、自分1人が面白いと思えばそのコンテンツは自分にとって100点なんですよ。

コンテンツへのいわゆる「お気持ち表明」
これはコンテンツがユーザーの求める方向へ進んでいくためにもある程度は必要ではあると思いますが、検索をかけた時に「お気持ち表明」ばかりのコンテンツでは自然と人が離れていくのではないでしょうか

ツイートしてる本人は、良いところも悪いところも書いてるのだと思いますが、やはりマイナスな意見が目についてしまうものです

私はまだシャニアニ第三章を観てない以上なんとも言えませんが、観てない人間からすると公開日にTL荒れてると結構不安になります
(私はシャニアニをめっちゃおもろいと思っている人間なので、ポジティブな意見が多いと思ってた)

こういった不満は公式サイトなど然るべきところに投げ、コンテンツを知らない不特定多数の人間が見るTwitterなどではもう少し"自分"が楽しめたからどうかを語る方が良いのではないでしょうか

「ワイの担当がが動いちょるぅぅぅっぅ!!」
「智代子…」
「こがたんの乳揺れすぎやろ」

こんなTLの方が面白いし、人が寄ってくると思いません?

シャニマス界隈には、物事に対して深く考察しすぎる'きらい'があると思います

深いこと考えずに、その時得た感情に身を委ねるのも”自分”がコンテンツを楽しむのに必要なことだと考えます

以上、「お気持ち表明」に対するお気持ち表明でした。

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