後藤田正晴・元副総理が語った死刑執行の決裁

法秩序を守る職責

1992年12月、後藤田正晴(1914-2005)氏は宮沢改造内閣の法務大臣に就任した。
当時、リクルート事件による混乱や務めた法相自身の信条が重なり、死刑執行が約3年間行われていなかった
後藤田氏は就任時の心境を御厨貴氏などによるオーラルヒストリー『情と理 後藤田正晴回顧録〔下〕』(講談社;1998年)でこう明かした。

官邸のなかで新閣僚の記者会見が必ずあるんですね。その時いきなり聞かれたのが、いま死刑の判決を受けて執行されていないひとが50数名たまっているというんだけど、これについてはどう思いますか、あなたは執行命令を決裁しますか、という話があった。そこで僕は言下に、現在制度として死刑があって、何百人という人の目を通して、これは間違いないということで死刑の判決は最終確定しているはずだ、現在の法律では少なくとも6ヶ月以内に法務大臣はそれを執行しなければいけないことになっている、それを考えた場合、これに決裁しないというわけにはいかない、おれは必ず決裁するよ、と言った。それはなぜですか、と言うから、法律の意義というものはそういうものだよ、といったようなやりとりがあったんです。

『情と理 後藤田正晴回顧録〔下〕』pp.266-pp.267

就任会見の発言は波紋を呼んだ。なぜなら長期間死刑執行が滞っていたことで、死刑廃止を唱える人々の動きが活発化しており、刑法改正を要する廃止までは難しくとも、執行停止状態は作れるのではないかと「期待」する向きまであったから。
実際そうした考えのひとからの声が後藤田氏のもとに寄せられる。

その後、役所の中で、この問題について決裁をなさいますか、と言うので、決裁するよという返答をしたんです。そうすると刑法の大先輩で、私も親しくしていただいている団藤重光先生という人が、死刑廃止の本を送ってきてくれた。あの方は死刑廃止論者です。最高裁の裁判官になって。再審か何かの決裁をして、その時に深く考えて、死刑制度はよくないと考えたんですね。私は当時、熱海に1日休養に行ったんです。その電車の中と夜で、この本を全部読んでみた。なるほど確かにこういう考え方はあるだろうということで、その考え方自身に僕は反対ではない。

前掲書pp.267

後藤田氏は「死刑廃止論」自体を否定はしないが、かといって法務大臣の職責を放棄するのはおかしいと考える。

しかし、少なくともいま死刑制度がある以上、裁判官だって現行制度をきちんと守って判決をしなければならないと思って、敢えて判決をしているわけですね。それを行政の長官である法務大臣が、執行命令に判を捺さないということがあり得るのか。それはおかしいというのが僕の考え方です。
そうするとアムネスティの人達が抗議に来たり、代議士さんでも江田五月君なんかが数名議員を連れて、執行命令を決裁しないようにしてくれという話があった。彼が僕が取り締まりをやった相手ですよ。横道孝弘君なんかと一緒に全学連の活動家でした。でも非常に真面目で良い意見をもっているひとですよ。それで僕は黙って聞いていて、あんたは裁判官をやっていたんだけれど、それでは聞くが、きみが法務大臣だったらどうするか、と言ったんです。彼は考え込んでしまって、帰ると言って、陳情団を連れて帰っちゃったんです。

同pp.267-pp.268

この後藤田氏と江田五月氏のやり取りは示唆的だった。後年江田氏は民主党政権下で法務大臣に就くが、在任中死刑執行の決裁をしなかった。恐らく「持論」との折り合いがつかなかったのだろう。

法秩序遵守の立場を堅持しつつ、後藤田氏は国民世論の動向を確かめた。

僕はいまでも考えは変わっていない。その理由は、一つは法秩序というものはどうすれば守られるのかということが基本にある。同時に僕は、それだけでもいかんだろうと、世論調査ではどうなっているのか調べたんです。そうしますと、政府の世論調査では7割ぐらいが死刑賛成論者ですね。死刑執行反対は少ないんです。しかしこういうものはそうした結果が出ることが多いんですね。だから僕は、これだけではいかんと思っていたところ、たまたまその前年か前々年ぐらいに、四国四県の県庁所在地、高松、松山、高知、徳島の街中の繁華街で、通行人に何の選択もなしに世論調査をやっている結果があったんです。それがまた同じなんだ。死刑廃止に反対なんだ。これは政府がやった世論調査ではなくて、民間がやったんじゃないですかね、ちょっとはっきりしないんですけれど。それでも、そういう結果だから、これではまだ、日本では死刑廃止は早過ぎるという気がしたんですね。

同pp.268

徳島県が選挙区の後藤田氏の手元に四国四県の県庁所在地の調査結果がたまたまあったとは考えにくい。恐らく法相就任時点でこの問題が懸案だと分かっていたから、伝手をたどってデータを集めたと推測する。

「結論の出ない問題」に向き合う覚悟

様々な目配りが済み、いよいよ死刑執行の決裁となった。
実際のプロセスを後藤田氏はこう振り返る。

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