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ハンドメイドと関係ないけど3年経ったのね。改めて経緯を。我が人生!(追加あり)-ハンドメイド実践日記29

何となくダッシュボード(回覧数など)を見ていて思ったのが

記事を書き始めたのが2018年5月でちょうど3年経ってました。

記事数が150オーバー。

もっと書いてた気もしたけど時期によって多い少ないがあるから、そんなもんかな。

元々、RMT(リアルマネートレード)をしていたのですが、色々と叩かれてました。

直接叩かれるのではなくて一般的にRMTは違法だ!という感じです。

でも合法的にやってたつもりだし、実際どうなんだ?という気持ちで投稿を始めました。

詳細は過去の記事を見ていただけたらと思うのですが、モバゲーメインだったのでRMT収入も衰退し試行錯誤しているところです。

勉強が嫌いでなかったので中学校から自分の意志で進学校へ行き

小学校から習っていたピアノは中学からの剣道部を休む口実のため続けましたが高2の終わりから坂本龍一に憧れ音大を目指し、辛うじて入学。

試験曲だけを毎日12時間練習してました^^;

かなり頑張って入ったものの実力が無かったため気力が続かず1年留年。

せっかく?留年するならと教職課程を受講。

卒業後、1週間のみ?という契約で中学校の音楽教員で臨時職員の話があり行くことに。

当時、何故1週間?と思いましたが当時の先生がイジメにあってたようで。。。

1週間が2週間、1か月とドンドン伸びていって。

1年した頃には、あぁこの子達の卒業を見送ることが出来るなと確信してました。

ちょうど10歳下だったのかな?

弟、妹みたいな感じで懐いてくれて楽しかったな^^

今でも何人かとは交流があります。

てか今日も会ってた。

最初のボーナスでノートパソコンを買いました。

WIndows3.1てやつ。

全く意味がわからなかった、

EXCELも成績処理に使ってみようと購入!

今もかもしれないけど臨時職員として採用されて、たまたまボーナス時期でいきなり50万以上もらいました。

当時、それが当たり前と思ってしまった。。。。

給料も月27万とか?

貯金しておけばよかったね^^

卒業式と同時に休んでた先生が戻ってくるということで契約切れ。


取り合えず半分くらいが学生の派遣会社へ3年くらい行ったかな。

その後、派遣先の会社へ引き抜かれ1年で会社がやらかして倒産。

広島で結構大々的にニュースになりました。。。

その後、親戚の叔母さんからずっと声が掛かっていた福祉関係へ。

この時、27歳くらいかな。

知的障碍者の作業所みたいなところで最初、桃とブドウを作っていました。

所長に凄く可愛がってもらって、わたしも何とか恩返ししたいと頑張ってました。

数年経って赤い羽根で200万円のレーザー彫刻機を購入してもらい担当になりました。

ベニヤや合板を使って色々作ってましたね。

そのときにイラストレーター10を買ってもらって使い倒してました。

彫刻機のメーカー担当者が関東から定期的にサポートに来ていたのですがレーザー彫刻機のデータ作成にはイラストレーターは使えない!と言い張ってましたが、2つくらい変換ツールかまして使ってました^^

今後、金銭的に余裕が出来たらレーザー彫刻機を買うつもりです。

その後、彫刻機は後輩に任せて野菜の担当に。

その頃、野菜担当の上司がいて思うように動けませんでした。

例えば、当時、ブロッコリーというものが普及していなくて嫁や炊事の栄養士が作ってほしいって。

上司に作りたいっていうと、誰もそんなもの食べない!

なので勝手にブロッコリーの種まいて、ごめんなさい!間違えました。

いや、間違えるわけないじゃん^^

でも、いざブロッコリーが出来るとバカ売れなわけ。

わたしも皆に上手を言って上司が作ってみろって言ってくれたから作ったんだよ!って。

翌年からわたしの権限がアップしました^^

種苗店、産直市など全てわたしが営業に回ってました。

こんなの作ってほしいって相談あっても上司に相談したらNG当たり前。

あるタイミングで割り切って、わたしが個人的に作って出荷するようになりました。

副業禁止なので、もちろん職場や上司には内緒ね^^

職場から車で5分の嫁の実家に住んでたから空地はいくらでもある。

ひたすら畑を借りて、廃材を集めてはビニールハウスも2棟作って。

数年間、365日ホント休みなかったです。

仕事の合間、全部畑してました。

頭につけるベルトタイプのライト買って朝5時から夜10時まで。

ちなみに勤務は朝8時から5時15分、夜勤夕方4時から朝10時まで。

産直市は車で30分かかる距離で6時から陳列可能。

苗を作っては産直市へ出荷して。

もちろん苗も植えて実も売ってました。

ある時、黒トマトというのを聞いて、なんだろ???

ネットでイギリスの種苗店を見つけて種を取り寄せて、気になる種は全部購入。

毎年、気になるトマト50種類種を取り寄せて美味しいものを10厳選。

次の年は厳選10+新しく50追加。

でひたすら厳選していく。

ある時、嫁と一緒に広島で一番大きい産直市へトマトを並べているときに

農協の担当者から声をかけてもらいました。

こんな綺麗なトマトは初めて見た!

是非、スーパーへ出荷してみませんか?

当時、農家が直接出荷というシステムは普及していなかったと思います。

でも儲かった?かというとトントンですね。

今では当たり前のズッキーニも15年前に出荷してた。

キュウリ?って言われてた。

未だに普及していない海外の野菜も沢山作ってました。

フランス料理の大会で日本一になった?

人と縁が出来て日本で手に入らないフランスの野菜を作ったり、

当時、ミシェラン2星のオーナーと仲良くなってオーダー野菜作って納品したら苦い!って言われたり^^;

自己満足。

これらの出荷は職場は副業禁止でそのころは最初に可愛がってもらってた所長は退職してました。

嫁のお父さんの出荷の手伝いと言い張ってましたが何回か新しい所長に呼び出し食らってました^^

「副業禁止って知ってる???」って。

その頃、上の娘が中学生、下の娘が3歳くらいかな。

ちょうど10歳差。

色々と狂ったのがそのころ。

嫁の幼馴染のお母さんからネットワークビジネスの話がきて。

嫁は断れず2回セミナーに参加してて、その時点でわたしに声がかかりました。

パソコン、携帯関連で旦那さん、こういうの得意でしょ?って。

それまで全く聞いてなく知らなかった。

わたしはそういうのも1回は聞いてから断るタイプなので特に抵抗はありませんでした。

新聞の1面を飾ったビズインターナショナルってやつです。

実は10年前にその商品を大手のパソコン雑誌で読んだことがありました。

当時、すごいなー!!!

と思ってて覚えてました。

セミナーは仕事で間に合わず、終わってから講師と話ししました。

それ知ってます!!!って^^

興味はあったのですが参加費が50万円だったので参加するきは全くなし。

流れ的に嫁に金ないしね。

っていうと、何とかなるかも。。。。って。

え???

そうなの?

それから講師に可愛がってもらって色々セミナー参加してました。

といっても、あまり人を誘うことは出来ず1年で3人かな。

それがポシャって流れ的にその後1年でに3つくらい参加したけど全部ダメだった。

1つは1週間で100万円の利益だったけど、10年続いたビジネスがちょうどその入金のタイミングでトンズラ。

名前ど忘れしたけど大手の炭酸パック。

そのころは時間がなくて畑はやめてました。

それでキッパリ縁を切って新しい収入源を模索。

それまでも模索はしていたけど、これからはネットショップの時代だと動き出したのが15年くらい前かな。

介護用品の仕入れルートを開拓し、本職の介護施設へ何とか納品できないかと考える。

だってそれまでは業者の言い値だったりネット検索でのトップ表示のサイトとか。

別のネットワークビジネスの講師と仲良くなってダミー会社になってもらってました^^

その会社へ発注して、代理でわたしが会社へ取りに行くということにして、うちの倉庫から届ける。

この頃にはパソコン関係のトラブルに強くなっていて、同系列13施設あるうちのいくつかのパソコン設定に行ってました。

当時は1介護職員でしたがコンサルタントに目をつけてもらって付いて回ってました。

その後、コンサルタントを通して本部職員として抜擢されます。

でも力足らずで半年で元の職場へ戻ることに。

そのあとはボチボチやってました。

小遣いの範囲でモバゲーのゲームで遊んでましたが、たまにヤフオクでアイテム購入(RMT)してました。

特定の出品者と取引していたのですが仲良くなり半年くらいで忙しすぎて人が足らない。

手伝おうか?というと最初は断られていましたが何度かやり取りするうちに、本気でやる気ある?って。

東京から広島で会いにきました。

ここからは色々と書けない事情があるので省きますが色々ありました・・・・

書類も書いて契約したのですが相手が思っていた5倍くらいの数字が初月から上がりました。

当時は福祉に行きながらです。

3か月して、その情報を自分で改良して安定して食ってけると確信しました。

最初の所長が退職し、銀行マンが所長になっていてストレスしかなかったですね。

入ったころは福祉施設ということもあり、所長も、このおじいちゃんおばあちゃんの家族になったあげるんだよって教わって。

高齢者の知的障碍者施設で可愛くて楽しく。

見た目は高齢者の中身は幼稚園て感じ。

とうちゃんとうちゃんて皆慕ってくれてね。

所長が変わったとたんにお客様です。

利益優先です。

わたしが白って言ったら黒でも白です。

イエスマンになれ。

って何度も所長室へ呼び出し食らってました。

そういう状況が何年も続いていたので、このRMTてやつで食っていけると確信して嫁の許可をもらい退職しました。

15年くらい勤めました。

慣れてくると月150万とか安定していましたが契約内容的にほとんど残りませんでした。

サラリーマンということもあり、その辺のことが全くわかってなかったんです。

全部持っていかれる。。。

農業をやめ24時間パソコンに向かったままで気づくとパソコン前で寝落ち。

体重も増え続け。

弁護士、警察に相談しましたが最初はどちらも効果なし。

半分、諦めていましたが実家の隣に行政書士さんが居て、親の勧めで相談しました。

そこから話が急転し、新しい弁護士さんを紹介してもらい、別な警察署へ相談にいき。

一気に相手側から連絡がなくなり解決しました。

それから数年RMTで収入を得ていましたが時代的に招待代行やトレードシステムが無くなってきて収入が減ってきました。

食べてくぐらいの需要は十分にあるのですがヤフオクでRMT出品が禁止されて色々と厳しくなってきました。

宣伝が出来ないってことです。

それを補うために何か新しいことを探しているときに上の娘から

孫のネームシールを作ってほしいと言われたのが3年前。

で、今に至ります。

今年の4月で50歳になりました。

決して安定はしていませんが試行錯誤の毎日です。

詳細は過去の記事で書いていたと思います^^


大事なこと忘れてた。

ニックネームのこと。

「ちょし」ってのは中学校のころかな?

「勝手にシロクマ」って漫画がありました。

それに出てきたヒロイン役の「モモンガのちょし」

「ちょし、ちょし」としか話せない。

そのとき、ちょしってフレーズにハマって、それ以来、何かあるときは

ちょしって使ってました。

これはどうでもいい話しです。


今使ってる「琴里」(ことり)

個人事業主の屋号も「琴里」にしています。

上の娘が「咲里」

下の娘が「真琴」

真琴はわたしが命名しました。

真琴は幼稚園から6年生までピアノを習ってましたが

5年生くらい?から「お琴」を習ってみたいと言い始めて。

いい事だ!と習わせましたが、後になって聞くと

「わたしの名前も琴だからやってみたくなった。」

何か嬉しかったですね^^

今も頑張ってくれてます。

真琴が産まれる前からずっと、何かしら事業を起こしたいと思ってました。

内容は全く決めてませんでしたが、やるとしたらパソコン関係かなと。

そして真琴が産まれたときに、

「咲里」と「真琴」で「琴里(ことり)」って可愛いな!

事業を始めるときは「琴里」という名前でやろう。

と決めました。


サラリーマン時代、野菜を作ったり、介護用品、化粧品を販売するときに

「琴里」という屋号で個人事業主の申請をしました。

このときは、まだ副業的なもので完全に節税対策のみ。

ガソリン代、光熱費など経費で落としていました。


その後、本業を辞める前に最初の「琴里」は廃業届を出しました。

そして心機一転で再度、「琴里」を再登録。

今思えば、この辺りのルールがあったのかもしれませんが特に問題なく登録完了。

で今に至ります。