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残すって選択はそのとき確かにわたしがそこにいたって証だと思う

 喋るのが得意じゃない。口下手だと言い切ってしまってもいい。考えるよりも先に口が動くタイプのにんげんで、喋りながら頭の中でああ、これ言いたいこととちょっと違ってるなあと、自分でも気付く。気付くから語尾に「、知らんですけど」とか「、とかなんとか」とか咄嗟に付け足して、そもそも曖昧であることばの羅列を、更にふんわりと料理させてしまいがち。

 だから、今みたいにこうやってMacを開いてソファーに背を預けて深く腰掛けてリラックスした状態で、日本語や漢字が合ってんのかその都度ググったり、引用文を再読したりしながら、カフェオレを片手にの〜んびり文章を綴っているこの瞬間にうまれたことばたちはどれも、紛れもなくわたしがかんがえてかんがえてはきだした誤魔化しようのないことばたちのはずだ。

 昨日と今日で考え方ががらっと変わることがある。きらいだったものがすきになったりする。見えなかったものが見えることもある。でもそのときその瞬間は、一生懸命かんがえて「そう」だと思って綴ったんだから、残しておかなきゃいけないなとおもったりした。 

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 ふと過去のツイートやnoteを読み返すと、恥ずかしくてしにたくなるときがある。この記事のタイトル「残すって選択はそのとき確かにわたしがそこにいたって証だと思う」も、実はもう既に恥ずかしくて公開ボタンを押すまでに小一時間掛かったほどである。“センタク”とか“アカシ”とかってワードが絶妙に中二心をそわっとさせる。「思うます」とかわざと噛んでみようかとも考えたけれどそこで羞恥心を持ってしまえば記事の内容と矛盾してしまう。新年早々自分の殻を破る大きな一歩となった。主成分はカフェオレだとか豪語してたけどあれただの病気とか言い出す日が来るのだろうか。そんな未来に臆さずどんどこはきだしてゆきたいしょぞんぬ。(しょぞんぬって流行んねえなこれ。)

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