最初の神の名が、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)であることについて

▼『古事記』を読む2 天之御中主神

●『古事記』を構造で読む
レヴィストロースをはじめとする人類学者たちは、いっけん素朴に見える民族の伝承に、緻密な構造が内在していることを明らかにしましたが、『古事記』も構造で観ると大変に面白い書物です。
もちろん、712年という『クルアーン』(コーラン)の成立(650年頃)より半世紀以上あとに成立した『古事記』は、素朴な伝承集ではなく、近代的なと言っていいくらいに整ったテクストですから、神話の構造とはまた違った書物の構造もそこに見ることが出来ます。

『古事記』は全3巻構成で、上巻が神代、中巻が伝説上の天皇の活躍譚、下巻が仁徳天皇から推古天皇までの記事になっています。巻ごとに内容が明確で、神話→伝説→系譜と内容がグラデーションになっています。


●神代の記述は国生みをはさんで文体が大きく変わる
神代が記述されている上巻は「序」と「本文」の二部構成です。
「序」は、内容的に、1.古代の回想、2.古事記撰録の発端(開始から中断までの経緯)、3.古事記撰録の完成(製作再開の経緯と表記への註)の三段に分かれています(各段の見出しは小学館「日本古典文学全集」による。(カッコ)内は稿者による補足)。
「本文」もまた、イザナギ・イザナミの国生みのエピソードをはさんで、前段は簡潔な文体、後段は豊饒な文体で書かれています。さらに前段は、別天つ神(ことあまつかみ)と神代七代(かみよななよ)の二つに神々の属性が分かれています。


●『古事記』の冒頭がわかりにくい理由
このように、明確な構成がなされている『古事記』ですが、おおむね、抽象から具体に話が進んでいるように思います。

逆にいうと、イザナギ・イザナミの国生み以降の具体的な神々の活躍譚は、前段の抽象部分を下敷きにしている可能性が高いと私は思っています。この理解は、『古事記』のテクスト論的な原文読解から得たものですが、私の考えが正しいとすると、『古事記』は、最初が最も分かりにくく、かつ最初から追わないと次が完全には分からない構成になっています。

これは、一般の書物としては致命的です。最初が難解な書物は、後段がいくら読みやすくても、そこに至る前に放り出されてしまうからです。

『古事記』のこのような構成は、『古事記』が、天皇家のみに伝えることを意図した「聖典」であることに起因すると考えます(『古事記』が「聖典」であることはこちらを参照ください)。
「聖典」とは聖なる力の源泉でもあります。権力者は、聖なる力を独占し、継承したいと願うはずです。
継承には、文字は最適な道具です。口承では伝え手が死んだら伝言ゲームになることを覚悟しなければなりませんが、文字なら書き手が死んでもそのまま伝承を残すことができます。
ところが、独占には、文字は最悪の道具です。書かれたものは、読める人には等しくその内容が伝わってしまうからです。


●文字はシンギュラリティー
『古事記』は日本最古の書物です。文字は、今のAIのような当時最先端のテクノロジーかつシンギュラリティー(そこを超えると社会が一変してしまい後戻りできなくなるような技術的突破点)であり、その威力と脅威がともに強く意識されていたはずです。

『古事記』冒頭の難解さは、今でいうテキストデータの暗号化や圧縮のようなものではないでしょうか。暗号化や圧縮されたテキスト情報は、外部のデコーダーがあればもとに戻すことができます。『古事記』の冒頭は、圧縮されているがゆえに簡潔な記述になっていて(たった233文字に17柱もの神々が登場します)、その圧縮を解くと全体を理解するためのキーが現れる。そんな構造であれば、継承と独占を文字によって両立することができます。

この私の仮説は、妄想にすぎないのかどうか。『古事記』を、その内在する論理に従って読んだ結果、筋が通れば仮説は検証され、筋が通らなければ仮説は妄想として棄却されます。

それでは、今回も、『古事記』の原文に入っていきましょう。


[古事記原文①-2 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)]

①天地初発之時於高天原成神名天之御中主神
①天地初めてあらはしし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。


[古事記現代語訳(テクスト論による試訳)①−2]

世界の始原。天と地とがあった。
天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。
時が、動き出した。
広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。そこに、最初の神が誕生した。名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。
この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。
高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。
この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。



[ダイアローグによる『古事記』解説2 天之御中主神]

■神の名は。

阿礼 天地(あめつち)はじめてあらはしし時、つまり、天と地が自らに気づき、この気づきにより、時が動き出し、世界ははじまりました。ここまでが前回でした。今日はその次です。

皇子 うん。

阿礼 高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
つまり、そのはじまりの時に、高天原にある神が誕生し、その神の名を天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言ったのでした。

皇子 なぜ、ある神さまが生まれたなんて言うの?天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様が生まれたんでしょう?

阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様が誕生されたことと、ある神さまが誕生されて、その神さまの名前が天之御中主神(アメノミナカヌシの神)様だったというのは、ちょっと違うんですね。

皇子 同じことじゃないの?

阿礼 それが違うのです。神さまそのものを、すべてあらわしきってしまうような呼び名はありません。あったとしても、それでは畏れ多くて口にすることはできません。そこで、神さまをすべてあらはす名前は問わないことにして、その神さまの働きをもっともよくあらはす名前で呼ぶのです。

皇子 そうなんだ。諱(いみな)と同じだね。

阿礼 さようです。そのものをあらはす名前は尊すぎてその名を呼ぶことははばかれますし、また、その方の業績をたたえて、その業績を簡潔にあらはす名前が贈られます。これは、神さまに倣(なら)ったことなのです。
そして、名前を持たずに生まれてくることは、それ以上に尊い意味があります

皇子 それは何なの?

阿礼 皇子も誰も、人は名前を持たずに生まれ、名前を与えられます。名前はその人を褒め称えその人の一生を祝福するために付けられるのですが、その人の可能性は、その祝福の名前さえも超えるものです。それが人が名前を持たずに生まれてくる意味です。人は無限の可能性を持って生まれてくるということを、「神の名は、」というくだりが、教えてくれているのです。

皇子 うむ。神がそうであるのなら、人もそうであるのは道理だね。

「神がそうなのだから当然人もそうなのだろう」という発想は、当時は一般的であったことが多くの研究から明らかになっています。例えば、元号「令和」で一般にも有名になった中西進博士は、『万葉集(一)』(講談社文庫)で、天智天皇(第38代天皇、在位668-671年)の皇太子時代の歌「香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相争いき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき」を、「香具山(女)は新たに現れた畝傍山(男)に心移りして古い恋仲の耳梨山(男)と争った。神代からこうであるらしい。昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい 。」と訳しています(前掲書p.55)。
『古事記』や『万葉集』の時代の人々の発想を考察したものに『日本人にとって聖なるものとは何か』(上野誠・中公新書)があります。非常に面白いのでオススメです。


■天之御中主神は、中心を神格化した神ではない

皇子 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、天の中心そのものなんでしょう?

阿礼 違います。中心のような抽象概念を神とするような発想は、中国のものであって、日本古来の発想にはありません。

皇子 じゃあ、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)ってどういう意味なの?

阿礼 天之御中主(アメノミナカヌシ)は、天の真ん中の主、主(ヌシ)は、領有するという意味の(ウシハク)から来ていますから、天の真ん中を領有(うしはく)する神さまというお名前です。

人類学者の宮永國子は、日本語は具体に向かい合う言語であり、イメージが湧くときに共感し納得するため、相手の言葉が理解できないときには「もっと具体的に言ってくれ」と求めますが、英語の場合は、相手の言葉が理解できないときには、具体例と共に抽象的にビシッと一般原理で言うよう求められると言います。具体のみで考えるのが日本語で、具体と抽象を往復して考えるのが英語だから、日本人は英語を使う米国人に比べ抽象思考が苦手なのだそうです。(宮永國子『英対話力』青土社)
確かに、『古事記』をはじめ、日本の古来の神々には抽象概念の神格化がない、あったとしたらその神は中国からの外来の神だというのが定説です。
ですが、『古事記』の冒頭部分を読むと、具体と抽象を往復するのではなく、複数の具体を同時に扱うことで、一般原理を用いずに抽象概念を扱う思考があったように思えます。
一般原理というのは一神教に通じる思考ですから、具体は抽象に隷属する。一方、『古事記』には、一神教の発想には無い、具体と抽象との関係を見ることができます。しかし、今の日本にはもはや、複数の具体を同時に扱うことで一般原理を用いずに抽象概念を扱う思考は、消えてしまっているように思えます。宮永氏の指摘するように具体だけで考え抽象思考の苦手な人たちと、英語の発想を取得し、具体と抽象を往復し具体を一般原理に隷属させて考える人たちに、我々は引き裂かれているのではないでしょうか。『古事記』の冒頭部分は、失われた思考によって書かれているために我々には難解です。でもそれをのり超えて、現代の私たちがその思考を取り戻すことは、とても重要なのではないでしょうか。


■天之御中主神は、どこか特定の天の中心いる神ではない

皇子 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、天の真ん中を領有しているのでしょう?それなら、天の動かぬ中心、北極星(ポラリス)にいるんだね?

阿礼 そうでしょうか。最も輝いている星(シリウス)が天の中心だとは言えないでしょうか?

皇子 それを言うなら月だよ。月の方がずっと明るい。

阿礼 いいえ、太陽の方がもっと明るいですよ。何も天は夜だけではありません。

皇子 そうだね。それでは、天之御中主(アメノミナカヌシ)は、太陽のある場所にいるんだね?

阿礼 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)は、太陽にも、月にも、シリウスにも、北極星(ポラリス)にも、天の中心と思われるすべての場所にいらっしゃいますし、そのどれかの場所にいらっしゃるとも言えます。

皇子 それは無理だよ。どこかにいたら、別のどこかにはいることはできない。

阿礼 そうでしょうか?すべてに意識が行けばすべてに、どれかに意識が行けばそのどれかに、そこを領有する天之御中主神(アメノミナカヌシの神)がいらっしゃいます。

皇子 そうなの? 正直、意識の話は、よく分からないんだ。でも、中心と思った場所に天之御中主神(アメノミナカヌシの神)がいらっしゃるということは、分かったよ。
 でも、どうせなら、一番の中心にいるのが格好いいよね。それはやっぱり太陽かな。

阿礼 まだ一番の中心にこだわっておいでですね。でも、一番の中心を考えないというのが、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)の名前が教えてくれることであり、天皇家に伝わる智慧なのですよ。
 有力豪族の中には、北極星を天の中心として信仰している一族もいれば、シリウスを天の中心として信仰している一族もいれば、月を天の中心として信仰している一族もいるでしょう?そのどれかを一番の中心としてしまえば、その一族としか組めません。

皇子 いやだからさ、どれかの一族と組むのではなくて、我々が天に最も明るい太陽を一番の中心として掲げ、他の中心を掲げている一族を従えればいいじゃないか。

阿礼 それでは、天照大御神(アマテラス)から世界が始まっていることになってしまいます。天皇家の伝承はそうではないのですから、天皇になられる皇子は、最初の神が天之御中主神(アメノミナカヌシの神)であることについてきちんと理解しなくてはいけません。

皇子 でも、天照大御神(アマテラス)以前の神の話を飛ばしてしまえば、天皇家の強さを、より力強く訴えることが出来るんじゃない?

阿礼 天の中央に唯一の最高神がいるとした中国は、確かに強大ですが、その王朝はどうなりましたか?何度も代わっているではありませんか。
 唯一絶対を掲げれば、一時の勢いは確かに強大になるかもしれませんが、やがては別の唯一絶対に取って代わられてしまうことを中国の歴史は教えてくれています。
 天之御中主神(アメノミナカヌシの神)からはじまる最初の神々を飛ばして、天照大御神(アマテラス)からのはじまりにしてしまえば、天皇家も中国の王朝と同じ運命をたどってしまいます。今がよいだけではダメなのですよ。

天之御中主神は、古来一般の信仰対象ではありませんでした。『延喜式』にも天之御中主神を祀る神社は一つも掲載されていません。
現在、天之御中主神を祀っている神社は、全て、明治の神仏分離政策によって、天之御中主神が祭神とされたものです。
例えば、恐らく東京で最も有名な天之御中主神を祀っている神社は「水天宮」ですが、これは文字通り「水天(バルナ)」というインド由来の水の神である仏教守護神を祀ったお宮でした。バルナは非常に強力な神さまで、イランに伝わって、ゾロアスター教の最高の善神アフラ・マズダとなります。バルナは、神さまは神さまですが仏教守護神なので神道の神さまとしては祀れない。そこで、最高つながりで天之御中主神ということになったのです。
このほか、福岡県の摩利支(まりし)神社のご祭神も天之御中主神です。こちらは、「摩利支天(マリーチ)」というインド由来の太陽光・月光の仏教守護神を祀ったお宮でした。水天宮と同様に、明治の神仏分離政策により、神道の神さまとしては祀れなくなり、太陽光・月光=天の中心からの光という連想から、祭神の名前が天之御中主神になりました。
また、天之御中主神を祀る神社の由来で最も多いのは、かつて妙見菩薩とされていた祭神が名称変更されたものです。妙見菩薩は、菩薩という名前ですが、先の水天や弁財天などと同様に天部すなわち仏教の守り神とされます。道教の北極星信仰として日本に伝来し、関東を中心に全国的な信仰を集めました。それが、明治の神道重視策で菩薩名を避け、北極星=天の中心という発想から天之御中主神になったものです。
このように、もともとは別の神さまがいまでは天之御中主神として祀られています。これは、天之御中主神が、北極星でも、太陽でも、月でも、シリウスその他、天の中心と考えられるどこにでもおられ、天の中心はそのどれでもあり、どれか一つに縛られないという発想がもともとあったからこそ可能になったのだと思われます。

(つづく)


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神辺菊之助

恵比寿のロルフィングZEROで古事記講座もやってます(連絡先:https://zero.hidefumiotsuka.com/contact/#contact)。知らざあ言って聞かせやしょう

『古事記』の思想

テクスト論という手法で読んでいきます。内在する論理に従って『古事記』を読んだとき、これまでの比較神話論や作品論などでの読みとはまったく別の「なにか思想のようなもの」が立ち現れてくるのがわかるかと思います。この「なにか思想のようなもの」から日常へのヒントなども掲載していきます。
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