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シン・ヱヴァンゲリヲンとの「内容ではない類似点」が教えてくれる『古事記』の読み方(『古事記』通読⑨)ver.1.22

※連載記事ですが、単独でも支障なくお読み頂けます。初回はこちら
※ムスヒの神の話(通読⑦、通読⑧)とウマシアシカビヒコジの神の話(次回通読⑨以降)とをつなぐ幕間の話題としてお楽しみください。

■『古事記』にこだわって『古事記』を読むということ

『古事記』を、原文に沿って、『古事記』に書かれていることにこだわって読んでいく試みをはじめたのですが、ちまたに多くある現代語訳と拙訳との手法の違いがよくわからないという声が聞こえてきました。

『古事記』を原文に沿って読んでいくなんて言うと、『古事記』を原文にそわないで読む読み方なんてあるのかなと思われてしまうかもしれませんが、実はそちらの方が主流だったりするのです。

例えば、『古事記』の最初の一文は、

天地初めてあらはしし時(天地初発の時)、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)

ですが、これを『日本書紀』の内容を参考に読んでしまえば、「天地初発の時」は「天地開闢かいびゃくの時」ということになってしまいます。
これが間違いであることは、既に江戸時代に本居宣長が示しているとおりです(『古事記伝』。本連載でも書いています↓)。

「天地初発の時」とは、天と地とがはじめて「発」した時のことで、天と地とは最初から天と地であったわけですが、「天地開闢の時」は、中国の古代思想である陰陽に基づく発想で、渾然一体となっていた天地が天と地とに分かれていった時という意味です。二つはまったく違うんですね。


■あわせ読みの危険性

『古事記』を読むのに、『日本書紀』をはじめ、他の文献や、民俗学や比較神話学などの手法を借りて読むとすると、どうしてもそちらの知見が先に立ちます。史料や資料が豊富だからです。

そうなると、なになにの神は、なんとか地方のなんとかで信仰されていた神さまだから、『古事記』のこのくだりはこういう意味に違いない、というような読みになっていきます。この読みは、実は危険な側面を持っています。

どういうことか、庵野監督の有名なアニメ作品である『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、エヴァと略す)を例に説明してみます。


■シン・ヱヴァンゲリヲンとエヴァンゲリオンは『古事記』と『日本書紀』

「エヴァ」は、1995年から1996年に放送されたTVアニメで、主人公の14歳の少年碇シンジくんが、国連直属のNERV(ネルフ)という組織の総司令であり、別居していた父から呼び出され、巨大人型決戦兵器エヴァンゲリオン初号機のパイロットとなって、使徒と呼ばれる襲来する謎の敵と戦うという物語です。知らない人は、知っている人がいないか交友関係から探してみて下さい。知っている人がいれば、熱く語ってくれるはずです。

このTVアニメは、最終2話(第25、26話)が、投げやりのようにも見える出来だったことから物議をかもし、翌年1997年に最終2話をリメイクした『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が公開されました。
その後も、エヴァ人気は衰えず、2007年からすべてのリメイクである新しい映画シリーズである『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』(シン・ヱヴァ)がはじまり、その最終作品は、2020年中の公開が予定されています。

勘がいい人にはもう分かってしまったと思いますが、TV版・初期映画版と新劇場版(シン・ヱヴァ)の関係は、『古事記』と『日本書紀』の関係にそっくりです。

『古事記』=新劇場版(シン・ヱヴァ)
『日本書紀』=TV版・初期映画版

という対応関係が見て取れるのです。

一連の物語として非常に完成度の高い『古事記』は「新劇場版(シン・ヱヴァ)」に巻が多く別伝も併記されている『日本書紀』は「TV版・初期映画版」に、その関係をなぞらえることが可能です。

TV版・初期映画版の「エヴァンゲリオン」が、新劇場版では「ヱヴァンゲリヲン」に表記が変わっているところは、神名表記、例えばイザナギ・イザナミの表記が『古事記』では伊邪那岐・伊邪那美、『日本書紀』では伊弉諾・伊弉冉と異なっているのに似ています。

また、新劇場版(シン・ヱヴァ)では、TV版・初期映画版には存在しない登場人物が重要な役割を持っている(例えば、真希波・マリ・イラストリアス)ところも、『日本書紀』には登場しない神々(こと天つ神)が重要な意味を持つ『古事記』と似ています。


■キャラクターを混同しない

そして、物語把握の上で重要なのは、主人公である碇シンジくんの性格が、新劇場版(シン・ヱヴァ)とTV版・初期映画版とで異なった設定となっていることです。

「新劇場版(シン・ヱヴァ)」では、碇シンジくんのキャラクター設定の変更もファンの間で大きな話題となりました。特に、2009年に公開されたリメイク第2作である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』では、TVシリーズや当初の映画版では終始ぐちぐち悩む少年だったシンジくんが、自ら決断して闘う男子として大活躍します。「エヴァに乗りたくなかったのに乗せられていたシンジくん」から「エヴァに乗ることを決断し自らの意思で乗ったシンジくん」へ変化したのです。

ファンは、「新劇場版(シン・ヱヴァ)」を観る際に、先入観というか前提として、TV版・初期映画版でのシンジくんの性格を念頭に置いていますから、その変わりっぷりに驚き、新作を観る楽しみが増加します。

ファンは、「TV版・初期映画版」という別のテクストを念頭に置きながら、「新劇場版(シン・ヱヴァ)」をまったく別のテクストとして楽しんでいるということになります。

これは当たり前の鑑賞態度です。ところがこの鑑賞態度を取らずに、碇シンジという主人公が同じだからという理由で、「新劇場版(シン・ヱヴァ)」と「TV版・初期映画版」とを同一視して混同してしまえば、両者の物語構造の差異を把握することは不可能になります。それでは「新劇場版(シン・ヱヴァ)」を新作として楽しむことは出来ません(なにしろ、以前の物語を「新劇場版(シン・ヱヴァ)」に投影して見ているのですから、新しい物語は現れてきません)。

ところが、『古事記』の読みは、「新劇場版(シン・ヱヴァ)」と「TV版・初期映画版」とを同一視して混同するのと同じことをやってしまいがちだったのです。

以前に書いたスサノオの話(↓)で、父からしか生まれていないスサノオが母を恋してくて泣くのは、「『日本書紀』ではスサノオがイザナギとイザナミから産まれたことになっているので、イザナミを母と思っているのだ」という解釈がなされていることを紹介しましたが、このような解釈が成立してしまうのが、ありがちな『古事記』解釈です。


■TVと映画が違うように『古事記』も分けて考える

エヴァに馴染みのない人のために、もうひとつ『ドラえもん』の例を挙げます。TV版の『ドラえもん』ではジャイアンは粗暴ないじめっ子として登場します(最近はそうでもないと聞きますが、ドラえもん=大山のぶ代時代のテレビのジャイアンは、のび太をいじめるキャラでした)。
これに対し、映画版の『ドラえもん』では、ジャイアンはいじめっ子というよりは男気のある頼れるガキ大将という設定で登場してきます。

これには、TV版の一話の尺が約11分なので、単純なストーリーやキャラクター設定が求められるのに対し、映画版の尺はだいたい90分以上であり、複雑なストーリーを成立させるために、ジャイアンのキャラクターも深みを持たせていることが理由だと思います。

TV版と映画版は、それぞれ別のテクストなので、それをいっしょくたにしてジャイアンの性格を論じるのはナンセンスです。TVでジャイアンがのび太をいじめているのを観て、「こうみえて、ジャイアンは男気のあるいい奴なんだよ。」と思うのは、余興以上のものではありません。

同様に、『古事記』に登場する神々の性格を『日本書紀』や『風土記』、その他の各地に伝わる伝承などに求めてしまっては、その神の研究にはなっても、『古事記』そのものの理解からは離れていってしまうのです。


■「序」が示す『古事記』の作品性

さて、これまでの説明に対し、現代のマンガ作品と『古事記』は違うという反論があるかもしれません。それに対しては、『古事記』の「序」がその反論への反論になります。

『古事記』の「序」には、『古事記』製作の意図として、諸家に伝わる記録(帝紀と旧辞)が真実と違い多くの偽りを付加しているために、いま正さなければ本旨は滅びてしまうだろうという危惧のもとに始められたことが記されています。『古事記』を解釈するのに他のテキスト解釈を持ち込むことは、『古事記』そのものの製作意図と矛盾することになるのです。

特に、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)、高御産巣日神(タカミムスヒの神)、神産巣日神(カミムスヒの神)から、天之常立神(アメノトコタチの神)までの別天つ神(ことあまつかみ)と呼ばれる冒頭の神々は、『日本書紀』の本文には出てきません(※)から、他の史料や資料からその性格を探求したい気持ちはわかるのですが、同時に、それは『古事記』に登場する神々の探求であって『古事記』そのものの探求ではないことを自覚しなければならないと思います。

※『日本書紀』の一書に曰くとして、諸説扱いでは出てきますが、そこの記述も『日本書紀』本文と別天つ神の世界が別であることを示しています。これについてはくどくなるのでここでは割愛します。機会があったらどこかで触れます。

もちろん、『古事記』を読むのに、歴史学や民俗学や比較神話学などの手法を借りて読むのは無意味だと言っているわけではありません。私自身、文化人類学(レヴィ=ストロースの研究など)や地理学(特に故高橋潤二郎先生の仮想空間の地理学)の知見を大いに参考にして『古事記』読解を行っています。

新劇場版ヱヴァだって、TV版・初期映画版エヴァを知っているからこそ、その作品のメッセージをよりよく受け取ることができます。
もっと言えば、エヴァに先立つ、ロボットアニメを知らない人がエヴァを見ても何が何だかわからないでしょう。子どもがロボット操縦する世界観の延長線上に、エヴァが描かれているのは明らかです。

テクストの意味は、他のテクストとの関連によって見つけ出されます(これを「間テクスト性」といいます)。歴史学や民俗学や比較神話学などの知見を大いに参考にしつつも、作品世界への解釈には持ち込まないこと、これが『古事記』を自律した存在で読むスタンスです。

このスタンスを徹底すると、他書を参考にした読み方では気がつかない『古事記』独自の思想が立ち現れてきます。と言うわけで、『古事記』を自律したものとして、これからも読み進めて行きたいと思います。

ウマシアシカビヒコジの神の話につづく)

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ver.1.1 minor updated at 11/1/2020(『古事記』通読シリーズに加えました)
ver.1.2 minor updated at 4/1/2021(目次を追加)
ver.1.21 minor updated at 2021/7/31(項番を⑧→⑨に採番し直し)
ver.1.22 minor updated at 2021/11/15(ルビを付け、新劇場版に「シン・ヱヴァ」のカッコ書きをつけました)

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