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なおざりにされてきた障害のある人たちの充実感。”ある・ない”レベルの支援からの卒業

日本を離れて10年近くになり、外から日本の支援教育や障害のある人の暮らしをみていて思うのは、

「あの頃に比べると、障害を持ちながらも学校にも放課後にも居場所ができて、卒業後に形は色々だけど就労のチャンスも増えてきたな。でも、道筋ができてきて障害のある人の居場所も用意されるようになったんだけど、なんだかあまり充実感とか幸福感が伝わってこないのはなんでなんだろ・・・」


そんな私のモヤモヤの答えらしきものが見つかった。
久しぶりに書いた今日のNoteはそんなおはなし。


シニアホームのボランティアで出会ったおばあちゃま。
いつも綺麗に着飾っていて家族も頻繁に訪れ、充実した毎日を送っているように私にはずっとみえていたんだよね。


でもね、ある時おばあちゃまがため息交じりにこんな愚痴をぽつりと。
「ここは部屋もきれいで毎日好きなものを着て好きに暮らしていいし、体調のケアもしてくれる人がいるから私みたいに年を取った人が暮らすには贅沢すぎるくらいの場所なんだけどね、毎日食べるごはんのチョイス(選択肢)が二つしかないっていうことが、ここでの生活のクオリティを台無しにしちゃうんだよね…」

ちょっとその言葉に考えさせられた。


日々の生活の質(クオリティオブライフ:QOL)を向上させる要素は数多くあるんだろうけど、「選択肢がたくさんある」っていうことが、日々の生活の質・喜び・充実感にどれほど深くかかわってるんだろうって。


例えば安全に暮らせる場所があり、食事をとれて空腹が満たされ、学ぶ場や働く場があることで日々過ごす居場所があるっていうことは、それはそれで日々の生活にかかせないのかもしれないし、「ある・ない」っていう視点だけで考えると、それらがないことはとっても不幸なことだよね。


でもやっぱり、「今日は何を着ようかな?」「何を食べようかな?」「こんなこと学んでみたいな」「この学校に行きたいな」「あの子と友達になりたい」「こんな仕事をしてみたいな」・・・そういうことが少しづつ叶って積み重なっていくことが、その人のQOLを向上させて毎日を意欲的に過ごせるようにする、とっても大切なことなんじゃないかなって思うんだよね。

日本にいる障害のある子供たちの生活を、ニュースやSNSを通じて海外からみていると、確かに10年前に比べたら、進学率も就職率も高くなって「ある・ない」の視点で考えると、「居場所」がある障害のある人たちは増えたように思うんだけど、それが本当に、その子・その人が居たかった場所なのかな?学びたかったことなのかな?働きたかった仕事なのかなって疑問に思うんだよね。


そんな風に考えると、障害があるっていうことで「生き方の選択肢を極端に狭められる」っていうことが、障害のある人の生きにくさの根源のひとつなのかなって。


確かに息子がまだ小さかった時、偏食で食べるものを限られ外食先の選択もほどんどなく、触覚の過敏さの為に着られる洋服の選択が狭かったり、パニックをおこすことで休日にでかける先も限定さて近くの公園にぶらっと遊びに行くこともためらって・・・。保育園・幼稚園も障害を理由に断られ、ちょっと遠くであろうが、評判がどうだろうがそんなの関係なく「受け入れてくれるところ」に落ち着くしかなかったんだよね。幸いにも息子にも私にも「ある・ない」の視点でみたら「居場所」はあった。でもそれが「いたかった場所」なのか「やりたかったことなのか」といわれれば、決してそうじゃなかったんだよね。

こうやって考えをめぐらせていてたどりついた結論が、

障害のある人が生きていくために選択肢を制限されない社会・選択肢がいっぱいたくさんある社会を日本の社会は目指す時期にきてるんじゃないかな。

”ある・ない”レベルの支援からの卒業。

それが障害のある人の生きやすさ・充実感・QOLの向上、そして笑顔あふれる毎日を導くんじゃないかな」ってね。

なんか、そんな思いを書き残しておきたかった今日のNote。
またそういう瞬間にめぐりあったら書きにきますね。その時まででごきげんよう。

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