【私家版】タイ「ポップス」史

1. はじめに

なんとなくタイの音楽を聴いてきて20年ほどが経ちました。ところが、タイの音楽を体系的にまとめた書籍等がなく、全体像が未だにつかめないのが実際のところです。正直に言うと、体系などないのかもしれないと思っています。

近年、日本では第二次タイポップブーム(勝手に命名)が起きており、2019年のサマソニに至っては3組のタイのアーティストが出演することになっています。どこかでタイの音楽と出会い、興味を持った方がいても、情報に奥行きがなければやがて飽きられてしまいます。例えばブラジル音楽が芳醇な独自の歴史を持っているが故に、ジャズ界でのボサノヴァブームやレアグルーブムーブメントなど、何度も何度も再評価されているように、タイ音楽もそうなっていってほしいという願いを込めて、この文章を書いています。

しかし、書いているのは音楽や文化の専門家ではない、立っているだけでセクハラになるようなそのへんのおっさんです。内容には誤認識や知ったかぶり、偏りが多く含まれると思います。ただ、これを嚆矢として識者や愛好家の皆さんに活発な議論が生まれることだけを期待して、ここに残しておこうと思っています。

2. 1960~70年代 - 先史時代

社会的には金持ちと貧乏人しかおらず、9割以上が貧乏人だった時代です。ルークトゥンやモーラムが音楽産業の中心で、金持ちは洋楽を聴いていました。

この頃の音楽シーンについては、以下の3冊を読んでおけば概ね理解できます。

TRIP TO ISAN : 旅するタイ・イサーン音楽ディスク・ガイド / SOI48
 世界で初めてモーラムを体系的に紹介したこの本が日本から生まれたことは誇ってよいと思います。しかも多くの歌手・プロデューサー本人へのインタビューが掲載されており、凄まじい労力が見て取れます。モーラムだけではなく、ルークトゥンやルークトゥン・モーラムへの言及もあり、70年代までの歌謡史はほぼ網羅されていると言っていいでしょう。私は2冊買いました。2017年刊。

まとわりつくタイの音楽 / 前川健一
 「バンコクの好奇心」など名エッセイを多く残した作家が、音楽にフォーカスして残したエッセイです。エッセイながら前述のSOI48をはじめ、日本のタイ音楽ファンに大きな影響を与えたエポックメイキングな1冊です。エッセイなのでファクトよりも主観寄り、かつ好き嫌いもはっきり書かれていますが、その表現だからこそ伝えられたことも多いと思います。1994年刊。

タイ・演歌の王国 / 大内治
 この方、全然情報がない謎の人物なんですが、主に1990年代のルークトゥンやモーラム楽団の形式、内情について詳らかにしています。時代的には1990年代に入ってからの情報ではあるのですが、ルークトゥンやモーラムの成り立ちおよび発展、受け入れられ方について、現場に食い込みながらきっちりと書き残しています。ルークトゥンを「演歌」と表現したことに賛否両論ありますが、タイ音楽など知らない人に「ルークトゥン!」と言い放つよりははるかに正しい方法だったと思います。1999年刊。

60年代にはThe Son of PMなど、ルークトゥンでもモーラムでもない音楽はありましたが、音楽的にも現代まで線としてつながっている印象はなく、あくまで一部の金持ちの娯楽として生まれたように見えます。

その後、アッサニー・ワサンとしてタイのロックの創始者とも言われるISN'T(イースン)、海外で評価され、レア・グルーヴ界隈でも人気のインポッシブルズなど、後にポップミュージックへつながっていく萌芽は70年代からありましたが、力強い勢力ではありませんでした。

インポッシブルズ、スウェーデン録音の作品はファンキーで格好いいのですが、国内向けの作品はソフトロック路線で、正直2019年の耳だときついです。ISN'Tはさらにきつい。

3. 1980年代 - 「ポップス」の萌芽

タイにおけるポップス台頭の最大のファクターは、1983年のグランミー設立だと考えています。それ以前、バンコク市内で流れる音楽は、ルークトゥンか洋楽、まれにモーラムぐらいでした。そしてその成功をブーストするのが、1986年のバード(トンチャイ・メーキンタイ、別名バード姐さん。男性ですが。)のデビューです。

とはいえ、今一番情報が残っていないのがこの80年代。1984年ごろバンコクのカセット屋へ行くと、ポートレートのようなジャケットのルークトゥンか、やたらと水牛のマークの入った(おそらく)プレーンプアチーウィットがほとんどで、ポップスらしきものはほとんど面積がなかったように記憶しています。

80年代にタイは未曾有の経済成長を遂げます。これに伴い都市部を中心に「新中間層」と呼ばれる中産階級が発生し、その数を増やしていきました。しかし娯楽を享受できる成人層はルークトゥンやモーラム、または洋楽で育っているため、この時期はまだまだタイのポップスそのものを受け入れる下地が整っていなかった可能性がある上、作り手側も試行錯誤を繰り返していたことが想像されます。

4. 1990年代 - ポップスの開花とインディーズ・レーベルの登場

1989年にマイがアルバムを立て続けにリリースし、1990年にはクリスティーナが満を持してデビューしました。これらにより、ポップスがポピュラリティを獲得していきます。バードで成功したグランミーのスター製造システムが機能し始めたのです。1991年にはJ ジェットリンがデビューするなど、またたく間にスターたちが誕生しました。

他にも、ティーンエイジシンガーのオームや

ヒップホップ風ユニット、BAZOOなど、個性的なアーティストたちが世に出るようになります。

1994年には日本でも人気を博したタタヤンもデビューします。

この頃のタイポップの特徴として、多くの曲、特にアップテンポの曲は、以下のリズムをベースとしています。

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このリズムはルークトゥンやモーラムでも見られ、現在でも確実にタイ人に染み付いているリズムです。この垢抜けないリズムがタイらしさを醸し出しているのですが、ラムウォンなど古いダンスミュージックには見られないため、ルークトゥン、モーラムが積極的に海外からネタを仕入れた際に入ってきたラテン(ルンバなど)の進化系、土着化なのではと考えています。

また、この頃のサウンドメイキングは今の感覚で言うとバランスが悪く、全インストゥルメンツのバランスが同じ(!)だったり、逆に極端なパンなど試行錯誤の後が見られます。

グランミーがスターを量産する一方で、RSプロモーションも1992年に大幅な増資を行い、10代をターゲットにメディア戦略に乗り出します。現在まで続く2大レーベルの形がこの時期には既に完成しています。

さて、これらの芸能界然とした世界が爛熟する一方で、サイアムスクエアで新たなムーブメントが動き出します。Bakery Musicの誕生です。1994年に生まれたこのレーベルは、R&Bやクラブミュージック、グランジ、J-POPなど、これまでタイの音楽界になかったフォーマットをタイに持ち込みました。いわゆるインディーズではありますが、創始者の一人がホテルグループの息子だったりして、資本的なバックアップもされていたようです。これは非常に示唆的で、原則として富裕層は洋楽やルーククルン(80年代には死滅していたようですが、郊外のカラオケに行くと歌っているおばちゃんはいます)、貧困層(とはいえマジョリティ)はルークトゥンやモーラムを聞く、という棲み分けがあるため、この種の音楽はタイでは富裕層以外から出て来得ないのです。

しかし、90年代後半になると、徐々にいかにもタイっぽい曲は影を潜めてきます。ニコルあたりになると、曲調の遊びを除くとリズムもメロディもかなり洗練されてきます。

ちなみに、80年代の高度経済成長下では、農民から富裕層へといった経済層間の移動が多く見られたため、ルークトゥンをバックグラウンドに持った金持ちというのも存在し得ました。後のリバイバルブームや、メーマイプレーンタイ(ルーククルンやルークトゥンを再発するレーベル)の人気につながっていくわけですが、「ポップス」から逸れてしまうためここでは割愛します。

Bakery Musicのアーティストたちは、従来のグランミーのアーティストたちとは異なり、率直に言うと見た目はアレですし、音楽も「売れたい」というよりは「(受け入れられないかもしれないけど)作りたいものを作った」印象です。初期のアーティストとしては、ボーイ・コシヤボン(創設者の一人)、ジョーイ・ボーイ、ヨーキー・プレイボーイ、モダンドッグなどがいます。音楽的には圧倒的な洋楽志向、言い方は良くないですが歌唱力よりも雰囲気を大事にしています。上下Gジャンのプレーンプアチーウィット勢を除き、音楽とファッション、アートが融合してきたのも特徴です。日本では「サイアム系」(サイアムスクエアがタイの渋谷と言われていたことからの比喩)と紹介されていました。

女性2人組のトライアンフ・キングダムも後のRSプロモーションのアイドルグループ群、さらには近年のアイドル・グループ群への先鞭と言っていいかもしれません。

そして渋谷系に影響を受けたアーティストも登場します。Mr.Zはピチカート・ファイヴへのリスペクトをストレートに表現し、Sweet Soul Revueのカヴァーも発表しています。小西康陽との交流もあったようです。彼のプロデュースしたナディアのファーストアルバムも思いっきりピチカート風でした。

5. 2000年代 - 音楽とリスナーの変容・日本の第一次タイポップブーム

2000年前後になると、タイポップは従来の泥臭さを徐々に捨て、洗練されてきます。2000年にリリースされた「Seven」という企画盤、これはマイ、マーシャ、ニコルなど当時のグランミーの主だったスターたちを集め競演させたものだったのですが、タイ語詞でなければどこの国のポップスかわからない、洗練された曲調とサウンドメイキングとなっています。大物たちがこれを歌う=ポップスの王道はこれだ、という宣言と捉えて良いのかもしれません。

もちろん一方で色物スレスレのチャイナ・ドールズや、ヒット曲がほぼ全てタイ丸出しなリズムのキャットなど、90年代から続く路線を踏襲して売れていくアーティストもいましたが、全体的な趨勢は洗練の方向に向かっていました。

一方でインディーズの雄Bakery Musicは金融危機のあおりを受け、2002年にBMG(最終的にSony BEC TERO)に株式の51%を譲渡し、事実上メジャー傘下に降りました。以降もリリースは続いていましたが、2000年前後の勢いは徐々に失われていきます。

そんな中、2002年頃からなぜか日本でタイポップのリリースが相次ぎました。ブアチョンプー、MAFなど、タイにおける一線級とは言い難いセレクションの中で、破格の扱いを受けていたのがブライオニーです。日本版の制作にあたりMISIAの制作陣がバックアップし、さらにはパナソニックの携帯電話のCMにも登場しました。「たまたまタイに遊びに来ていた日本のCFクリエーターが、CDショップで彼女のジャケット・カバーを見て一目ぼれ、すぐに撮影が決定した」というストーリーが語られていましたが、少なくとも大手広告代理店、ハウスエージェンシー(メーカー、通信)、ユニバーサルミュージックが関与しなければ成立しない規模の露出でしたので、良く言えば戦略的、悪く言えばゴリ押しに近い形での展開だったはずです。これらを受けて2004年にはタイでも大ヒットしたパーミーのアルバムが日本で発売され、主にタイ好きの日本人を中心に認知を高めていきます。

2005年にはタタヤンが全世界対象に北欧制作のシングルおよびアルバムを発表し、日本でも小ヒットしました。また、ゴルフ&マイクがジャニーズの肝煎りで日本デビューし、今までタイにはなかった中性的なアイドル路線で日本のお茶の間にも登場しました。

いずれにせよこの時期、外貨獲得のためタイ側(特にグランミー)に日本をはじめ海外進出を狙う意図があり、日本側における韓流ブームの二匹目のドジョウを狙う意図などと噛み合い、大きな規模の露出が実現したのではないか、と推測します。日本でもタイポップを扱う多くのWebサイトが立ち上がり、驚くほど詳細な情報を発信していました。

しかし、日本でのタイポップのプレゼンスはこれをピークに急速に低下し、メジャーな媒体での露出はほぼなくなりました。アキバカルチャーをそのまま取り込んだRSのNeko Jumpがアニメとのタイアップにより2010年ごろまでわずかなリリースがあった程度でしょうか。

話をタイに戻すと、2003年にオーディション番組、The Starが始まりました。タイ全土から集まった出場者を、視聴者がSMSで投票するこの番組から、ビー・ザ・スター、ガン・ザ・スターなどを生み出しています。モロにThe American IdolやThe X Factorなどのオーディション番組そのままなのですが、タイでもアメリカやイギリス同様の盛り上がりを見せました。

RSエンターテイメントは2007年にKAMIKAZEレーベルを立ち上げ、10代をターゲットにアイドルグループ戦略を開始します。前述のNeko Jumpの他、フォーモッドなどが人気を博しました。

また、2000年代後半からいわゆる90年代以降の歌手のベスト盤が発売されるようになりました。元々タイでは再プレスはほとんど行われないため、過去の音源を入手することが困難で、カセットショップ、CDショップはライブラリとしての機能は満たしていませんでした。ベスト盤の発売は、生活がある程度豊かになりタイポップを楽しむ余裕があった人が大人になった、という社会構造の変化に適応した側面もあると言えます。

6. 2010年代 - CDの衰退、そして地域から嗜好へ

2010年代に入ると、ボサノヴァテイストのルーラや、エレクトロロックのGETSUNOVAなどのヒットがあり、タイポップは音楽的にさらに多様化していきます。

一方で、タイポップの販売ルートはマンポンやブーメランといったCDショップチェーンが主流でしたが、これらが続々と閉店していきました。RSプロモーションは早々にCDを作らないことを決め、一方のグランミーは売上の維持拡大のため、モーラムやルークトゥンのレーベルGrammy Goldを立ち上げます。ダウンロードが音楽流通の中心となりつつあるのは世界的な趨勢ですが、タイはいち早くその流れに反応した国の一つと言えます。

少しずつですがメジャー系が影響力を弱めていく中、2010年代も中頃を過ぎると、インディーズが勢いを増してきます。Nong、DJサイアム(閉店)といった個性の強いCDショップが情報ハブの役割を担い、さらにはタイ版カレッジチャートとも言えるCat Radioが2014年に現在の形式で放送を開始しています。音楽フェスも2010年にBIG MOUNTAIN FESTIVAL、おそらく2014年ごろにCat Expoがスタートしています。

インディーズの隆盛は、Youtubeなどを介して世界中の音楽にダイレクトに触れられる環境下で育った若者が、国内メジャー発の音楽だけで満足できなくなるのは当然の流れかもしれません。曲自体に従来のタイポップの影響は全く感じられず、欧米や日本の影響が明確に打ち出されています。また、海外進出も盛んで、2019年のサマーソニックにはプム・ヴィプリットとSTAMP、TELEx TELEXsの出演が決まっています。裏でウッドストック50周年フェスが行われるため海外勢のブッキングが困難だった背景もあるかもしれませんが、快挙と言って良いでしょう。それ以外にも、タイのインディーズアーティストは頻繁に来日し、ライブを行っています。

また、モーラムに影響を受けたアメリカのバンド、クルアンビンが世界的に評価されています。こうなると、もはや物理的な立地にあまり意味がなくなり、音楽的嗜好によってグルーピングされる時代が来ているように思います。

音楽のその国らしさを規定するのが積み重ねてきた音楽体験だとすると、体験がインターネットで場所に関係なく共有されることで、差異は歌詞の言語だけになるのではないかと推測します。例えば、シンディ・スイやグラマフォン・チルドレンのように歌詞がない、または重み付けが相対的に低いアーティストについては、ちょっとしたきっかけで世界的にブレイクする可能性がある気がします。

7. 2020年代 - まさかの展開

コロナ禍によりミュージシャンの活動は制限されていきます。Cat Expoをはじめとしたフェスはオンラインでの実施または中止となり、Feverの解散は日本のファンにも大きな衝撃を与えました。一方で、ネットをうまく活用し、グローバルに知名度を上げていくアーティストもいます。

LUSSなどの若いアーティストは積極的にYoutubeを活用し、新たなファン層を開拓しています。

また、BNK48を辞退したといわれるMillie Snow(ミンリー)は何度目かの世界的なシティポップブームの波に乗り、楽曲のクオリティの高さも相俟って認知を獲得しました。

そんな中、日本ではタイのドラマ「2gether」が突然ヒットし、作品内で使用されたScrubbなどの曲が人気を博します。Scrubbは10年代から良質な作品を出し続けており、タイでは一定の人気を得ていましたが、この件で日本国内での知名度を一気に上げ、ドラマ内で使用された楽曲をコンパイルしたCDも発売されました。

ここからタイポップが徐々に日本で市民権を得ていくのか、一過性のブームで終わるのか、

あとがき

書けば書くほど謎が深まるばかりで、沼の深さを改めて実感しています。あのアーティストも取り上げていない、このバンドも入っていない、というのもありますが、やはりロック界隈との関係、モーラムやルークトゥンとの関係が書けていないことで、点と点がつながっていないことは白状しなければなりません。

タイの在留邦人が7万人を超え、親しんだタイのカルチャーを持ち帰る人も増えています。タイへの旅行者数に至っては年間160万人を超えており、そこでタイポップに触れる機会もあるでしょう。アーティストの来日も多いので、日本で出会うこともあるかもしれません。不十分なガイドではありますが、そこで自分が面白く感じたものがどういう位置にあって、前後はどうなっていたのか、そしてそこから新しい楽しさを見出していただけるとうれしいです。

最後に、Twitter上で多くの方に応援していただき、何とか書き上げることができました。この場を借りてお礼を申し上げます。少しでも皆様のお役に立てることを願います。

2019/5/21追記:
本稿は多くの方に誤記、誤認識をご指摘いただき、修正しています。
本来は修正点を残すべきかもしれませんが、タイ音楽に興味のなかった方がたどり着いた際に「うわっ!見る気なくした!」とならないよう修正の記述はしておりません(あまりにも多いのです)。
なお、できる限り正しい記載としたいので、ご指摘は大歓迎です!


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