思考としての感染症 思想としての感染症[第二章](中外医学社アーカイブス)

思考としての感染症 思想としての感染症
岩田 健太郎 いわた けんたろう 著
■第二章


監査について考える

 日本の場合、厚労省にしても保健所にしても、そして医療評価機構にしても医療の質の向上にはあまり貢献していない。確かに、質の低い医療機関のボトムアップという意味ではある一定の役割を果たしているので、全く無価値ということはないだろう。しかし、世の中に全く無価値のものなど存在しないのであって、ある一定の価値がある、という理由だけでその存在が許容されるわけではない。
 これらの監査者達の問題点は、失点をチェックしてあげつらい、それを糾弾するだけで、本質的な質の向上に貢献しようとしていない点である。医療者の失策を監査者があげつらい、糾弾し、改善を求める構造になっている。
 この場合、監査者と医療者は対立する関係にあり、監査者は医療者を根掘り葉掘りあげつらう立場にあり、医療者にとっては監査者はうるさくつきまとう蝿のようなうるさい存在である。両者の対立構造は、明らかな不正や低レベルの医療を是正する一定の役割があるが、ただそれだけである。
 オマケに、日本の場合監査者の多くが数年でローテートしてしまい、現場のなんたるかを理解していない「素人」なので、さらに問題の根は深くなる。医療の本質を理解していない場合、逆にその質を低下させるようなことを言いかねないのである。
 実例を挙げよう。亀田総合病院に医療評価機構がやってきたとき、彼らは「亀田の針刺し事故は多すぎる」と批判した。しかし、これは事物の本質を完全に見誤ったとんちんかんな物言いである。亀田の場合、針刺し事故を起こしたらきちんと報告するようなシステムや文化を創っている。起きた針刺しは報告されるから、ある一定の数は出る。しかし、正直に報告していなければ個々の対策はとりようもないし、今後針刺しを減らすためのシステム作りもままならない。こういうなかでの針刺し報告数であり、単にその実数が「全国平均」より多いからといってそれが非難に値するわけではない。むしろ一番怖いのは「針刺しの全く起きていない病院」なのである。
 このような基本的な事項すら理解できず、単に表面的な数字を見、全国平均と比較し、平均と逸脱していること「だけ」を理由に非難の対象にするのが日本の監査者の特徴であり、これは厚労省も保健所も県庁などの地方自治体も変わりはない。全国平均とは凡庸という意味でもある。なぜ、全ての医療機関を凡庸な存在におとしめようと努力するのであろうか。
 医療評価機構は米国のJCAHOをその基盤にしている。しかし、米国のシステムがなんでも理想であるわけではなく、実は全く同じ理由でJCAHOは米国の病院から蛇蝎のごとく嫌われていた。
 さて、とはいえボトムアップのための監査は必要である。では、この問題をどのように解決したらよいのだろう。
 ヒントは、オランダにあった。オランダは、現在世界でもっとも優れた医療システムを実行しており、Commonwealth Fundなどに高く評価されているが、医療監査の仕組みも大変興味深いものであった。
 例えば感染症関係の監査を行うのは専門の感染管理者の資格を持っているプロである(ICPという)。日本のような素人ではない。しかも、20年のキャリアを持つ大ベテランである。基本的なノウハウや経験を持っているから、現場もその勧告を受け入れやすい。
 しかし、本当に驚きなのはその先である。ある医療機関がガイドライン通りの医療を提供できていないことを監査者が見つけたとしよう。日本であれば、指摘して改善命令を出して終わりである。しかし、オランダの監査者は「なぜガイドライン通りにできていないのか」を問う。単なる知識の不足か、意欲の不足か、それとも他に理由があるのかを問う。
 場合によっては人材不足が理由になっている可能性もあるし、場合によっては予算不足が理由になっていることもあろう。もしかしたら、ガイドラインが当該医療機関の実情に合っていない過度な要求をしているのかもしれない。このようにroot cause analysisを行う。
 もし、問題の根本原因が内的なものではなく、外的な理由である場合、監査者は外的な部分にその改善を求める。例えば、予算不足がガイドライン遵守不可能な根本原因と分かれば、監査者は中央の厚生省に持って行き、予算配分の改善要求を行うことすらあるという。
 ここでの監査者の仕事は、医療者の揚げ足取りや、糾弾ではない。あくまでも目的は質の向上である。質の向上は医療者にとっても望むところであるから、両者は同じ方向を向いている。日本のような対立概念ではないのである。感染管理担当者にしてみれば、監査者がやってくることで内外に提言を行い、改善の手伝いをしてくれるのだからありがたい。院長に感染管理担当者を増やすよう助言してくれるかもしれないし、行政に予算を増やすよう進言してくれることもある。この場合、監査者は医療者にとって強い味方なのである。
 医療とはチームワークである。この場合、行政担当者、公衆衛生担当者、そして監査者も同じチームの一員であると私は考える。これらが対立したり、無視したり、全く別方向を向いているのが現在の日本の貧しい実情である。
 現在、先進国でHIV新規感染者が増えている希有な国が日本である。積極的に検査を奨励していくのが我々医療者のつとめであるが、保健所では無料の検査が医療機関では有料である。保健所の人にこれはおかしいのではないか、と質問すると、いやいや、保健所は検査数を増やす実績を上げている、とか公衆衛生を守る役割があるとか、医療機関では実名なのでプライバシーに問題がある、などといったとんちんかんな答えが返ってくる。
 私は保健所でHIV検査をするべきではない、と主張しているのではない。医療機関でももっと容易に検査ができるようにするべきだ、といっているだけなのだ。真の目的はHIV感染者の早期発見であり、保健所が、医療機関が、といったヘゲモニー争いをするのは本来の目的を逸脱している。同じ目的に向かって複数のセクターが協力すればいいだけの話で、あちらは無料でこちらは有料というダブルスタンダードはおかしいのではないか、と問うているだけなのである。
 同じ構造は、薬害で問題になったC型肝炎の検査についても言える。たくさんの検査要求が来たとき、医療者も保健所も「これは病院の仕事じゃないんですか」とか「保健所の仕事じゃないんですか」といった責任のなすり合いが起きて、私を唖然とさせた。ヘゲモニー争いの裏返しは責任のなすりあいであり、両者は同じ失敗の構造を持っている。
 役所や大学といった大きな組織の縦割り構造も、大きなゴールを見据えることなしに各セクションが自分たちの小さな枠内でヘゲモニー争いと責任のなすり合いを延々と行っていることから来る誤謬である。自分たちの仕事の枠組みが世界の全てだと思っており、それを疑いもしない人間は多い。何のために仕事をしているのかも、充分に理解できていない。ここでも、自分の仕事や組織の枠組みを1回離れて、もう一つ大きな枠組みの中で問題を俯瞰するフッサールの現象論的なアプローチが必要になる。無意味なアイデンティティーを1回捨てればよいだけの話なのである。
 血液製剤の破傷風免疫グロブリンの感染症のリスクについて厚労省に問い合わせたことがある。医薬品を承認する部署に電話をしたら、うちは承認はするがその後の安全性については関知していない、医薬品の安全対策を担当する部署と話をしろ、という話であった。その部署に電話をすると、血液製剤はうちは関知していない、血液製剤を担当する部署に電話をしろという。その部署に電話をすると、それは医薬品を承認する課の仕事じゃないかなあ、とのたまう。まるで滑稽なマンガのようだが、実話である。
 ヘゲモニー争いと責任のなすり合いの構造が何を産むか。無責任体質、プロフェッショナリズムの消失、そして隠蔽体質である。彼らは、決して怠慢ではない。実に真面目で勤勉であるし、それなりの正義感も持ち合わせている。しかし、自らの設けた枠の中でしか、そういうシステムの中でしか仕事ができないし、その枠組みを超えたより大きな大儀を思う視野を持たず、枠組みを超える勇気も持っていない。そこが最大の問題である。幕末に日本が存亡の危機に立たされたとき、すでに腐りかけていた江戸幕府の保持に汲々とした幕臣のようなものである。小さい枠の中で「幕府の保持」、現状維持の圧力に引っ張られていても、日本そのものがつぶれてしまう、という事実が理解できないのである。いわゆる「薬害」の原因の一つが、この構造にある。
 そういうわけで、絶望的な気分になった私は、厚労省は1回つぶれないと今の体質は変わらない。私はそう考えてきた。坂本竜馬達が大政奉還をさせたように、今の日本には厚労省に代わる新しい行政システムが必要なのではないか、と。
 件の破傷風免疫グロブリンの話には後日談がある。同じ件で、再び厚労省に電話をした時の話である。
 通常、厚労省に電話をしても担当者は名前を名乗らない。こちらが問うまで名乗らない。電話で会話をするときに名を名乗るのは社会の常識であり、こちらが先に名乗った場合は特にそうであるのだが、厚労省の役人には社会の常識は通用しない。常にこちらが訊くまで名前を名乗らないのだ。無責任と臆病がなせる業である。
 しかしこのとき、血液製剤を担当する部署の電話に出たのはGという官僚であった。彼は、私が厚労省に電話をした中で唯一「私はGと申します」と名前を名乗った。私は事情を説明し、市場に出ている破傷風免疫グロブリンの安全性には懸念があり、安全確認を行う必要性を訴えた。G氏は「分かりました。では、薬品を承認する課に問い合わせて、検証すべき問題かどうか確認させてください」と言った。他の部署と一緒に仕事をする、と言ったのは私の知る限りG氏が初めてである。
 私は考えた。厚労省にも自浄作用は働き、改善が起きるのだろうか。G氏のような存在は普遍化するのであろうか。それとも彼のような人物は単なる例外事項であり、普遍化するのは不可能か。どのみち、G氏が血液製剤を担当するのは長くてあと2、3年であり、その後はどこか別の部署に行ってしまうであろう。血液製剤の根の深い問題に対峙するのには、おそらく最低10年はかかるであろうにも関わらず、である。

※本コンテンツは2008年刊行『思考としての感染症 思想としての感染症』(岩田健太郎)を再テキスト化したものであり、以下は有料となります。

※本コンテンツでは『思考としての感染症 思想としての感染症』の第二章を読むことが出来ます。

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