ロマンは行為に先立つ

「ロマンは行為に先立つ」

最近、私はこのように思うのである
ロマンというのは人間的活動による生産物であると思われるが、ではそれはいかにして生産されるのであろうか。
おそらく言語活動によって、しかも観念的に生産されるのであろう。
例えば読書をするとき、私はロマンを感じる。
本の中に広がる未だ見たことのない世界の中へ、徐々に高まる恍惚感を抱きながら、最後には裸で駆け出してしまいたく思うのである。
しかし、その私を強く吸引するロマンというものは、よくよく考えてみれば、その際感じうる恍惚感のイメージとは全くかけ離れた無機的な本来性を持っていたのではないか。
だってそうだろう。
あくまで本や文字というものは人工物に過ぎず、本来冷たい印象に終始するはずである。
しかしその人工物が、熱と光を帯びながらヨチヨチと歩き出し、有機的に彩られていくことを私は知っている。
ロマンというものは、バーバル(言語的)で、かつ、アイディーアル(観念的)だという、一種の二律背反的現象を醸し出すのだ。
そして、複数の無機物の集合体として現前するその有機的な塊は、私たちを盲目的な一種の思考停止状態とでもいうべき強烈な行動力へと紐づける。
ロマンに駆られ、思ってもいなかった方向へ身体が勝手に向かって行くのは、恐らくこういうことなのだろう。

つまり、「ロマンは行為に先立つ」のだ。

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