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もう二度と幸せになれない気がした時は "ほっとレモンおじさん" を思いだす


6月某日。

半袖のシャツがぴったりな日、氷がたくさん入ったカフェオレを飲みながら親友の離婚報告を聞いていた。

「男は浮気をするもので、いい妻はそれを黙って見逃すものなのかな」

ランチタイムがおわる頃、彼女が言った。


恋愛に限らず "〇〇はこういうもの論" は、なんとなくの共通認識として話題になる。

だからこそ、外れたもの ―― 例えば白馬にのった王子様、残業のない会社、すべてを許し愛してくれる女性など ―― は夢物語のように笑われがちだ。

ただ、そういう場面に出くわし「もう二度と幸せになれない気がする」なんて聞くたびに、私は "ほっとレモンおじさん" のことを思いだしてしまう。



"ほっとレモンおじさん"に出会った頃。

私はど田舎の中学生で、端的にいってダサかった。

たまたま入った強豪校の吹奏楽部では、甘酸っぱい恋愛も、制服を着崩すのも禁止。

PTAが「この吹奏楽部はまるで軍隊」と言っていたけれど、まさにその通りだった。


そんな軍隊に所属して初めての冬。

合同練習をしに他校へ行った私は、電車の乗り換えをまちがえて家に帰るまでの交通費がたりなくなった。


部活終わりの時刻は夜9時。

東京と言えど田舎であれば無人改札の駅もあるし、近くにマックやコンビニもない。

数えるほどの街頭に照らされた畑のど真ん中で、お金もなく、携帯電話もなく、持っているのは5キロもある重い楽器だけ。

家の方角はなんとなくわかるけれど、電車で数時間もかかった場所。歩いて帰るなんて無謀だった。



どうしよう、どうしよう、どうしよう。

グルグル考え続けた結果、とりあえず明るい方向に歩くことにした。

幸か不幸か「携帯電話は高校生になってから」という教育方針のおかげで自宅の電話番号はしっかりと覚えていたから、公衆電話でも見つけて両親に連絡をするしかないと考えたのだ。


でも、気が遠くなるほど歩き公衆電話を見つけても、共働きの両親と連絡がとれるかは別問題だった。

1度かけて、ダメだったら、20分ほど時間をおいてまたかける。

留守番電話につながればつながるほど、手元の小銭は無くなっていく。自分の生命線であるお金が消えていくのは絶望以外の何物でもない。

いつしかお金はなくなり、万事休すだった。



暗闇というのは怖いもので、見ず知らずの真っ暗な場所にポツンとたっていると、ネガティブの連鎖が始まる。

どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
どうしてうまくやれなかったんだろう。
なんて自分はダメなやつなんだろう。

そうグルグルと考えつつ痛いほど冷たくなった手をなでていたら、1人のおじさんが「大丈夫?」と声をかけてくれた。


暗闇の中で目をこらして、やっとサンクスの制服を着ていると理解できた。

その事実に少しだけほっとした私が

「大丈夫……では、ないです……」

とほぼ泣き声で訴えると、おじさんはサンクスのなかに案内し、備え付けの電話を手渡し「何度でもかけていいから」と言ってくれた。

明るい場所にでられたこと、誰か人に出会えたこと、暖かい屋内に入れたこと。

すべてが嬉しくて泣きそうになったのだけれど、下唇を噛んでなんとか耐えた。


数時間が経って、ボーっと外を眺めながら両親に電話が通じるのを待つ私におじさんは暖かい "ほっとレモン" を手渡した。

健康志向の家庭で育った私は、ジュースの類をほぼ飲んだことがない。

初めて飲んだほっとレモンはすごく甘くて、信じられないくらい気持ちが落ち着いた。

あの日から14年ほど経つ今でも、ほっとレモンを飲めばあの時の安心感がじわりとよみがえる。



この話をすると、

「ほっとレモンなんてたかだか150円くらい」
「あなたが可愛くて若い女の子だったからだよ」

と言う人もいる。


確かに、おじさんの胸の内まではわからない。

ただ最初にも言った通り、当時の私は軍隊さながらの吹奏楽部に所属する兵隊だ。

それが路上でうずくまっているのである。冷静に考えて、たぶん「ヤバそう」とか「気持ち悪い」といった感想の方がふくらむはずだ。


しかも真っ暗な深夜。路上で今にも泣きそう女子中学生が、おじさんに声をかけられているのである。

見ようによっては犯罪現場だ。


一般的に「見知らぬ人に声をかけられたら逃げろ」と教わる。

私だって子どもができたら、きっとそう教えてしまう。

ほっとレモンおじさんが100%の善意で声をかけてくれたとしても、怯えた私が叫び声をあげたら冤罪が生まれかねない。

当事者がどれだけ手助けを必要としていても、無関係な第三者にそれは伝わらない。


また、おそらくおじさんはサンクスでひとり夜勤をしていたのだろう。

通常業務をこなしながら得体のしれない女子中学生を保護して、彼に何の得があったのだろうか。仕事の邪魔でしかなく、褒められるわけでもない。

彼があのサンクスでどれくらいの立場だったのかわからないけれど、もしかしたら想像できないほどの迷惑をかける可能性もあった。


世の中的な正しい行動は、ほとんどの場合、無実の自分を守るためのもの。

大人になればなるほど、世の中的に正しい振る舞いでは "路上で困ってるヤバそうな女子中学生は無視" なのだと理解した。



日本の植物学者・教育学者である山田卓三氏は著書 "生物学からみた子育て" の中で「幼少期の原体験はその後の事物事象の認識を促す上で重要な体験である」と言っていた。

つまり "原体験" とは、1度でも体験すれば一生残る長期記憶。私達が自分の人となりをつくるうえで材料みたいなものを指す。


私はたまたまサンクスの前でおじさんに出会い、ほっとレモンをもらい、心の底から安心した。思えばあれも私の原体験である。

確実にヤバい中学生であっても助けるほっとレモンおじさんがいた。

あの時の記憶があるからこそ、どれだけ異性ともめようが裏切られようが "男はみんな浮気するもの" とか "100あるうちのすべてが〇〇" なんてことは絶対にないと思ってしまう。


もちろん多数派と少数派の違いはあるだろう。

少数派は世の中的に正しい振る舞い ―― 路上で困ってるヤバそうな女子中学生は無視、見知らぬ人に声をかけられたら逃げろ、〇〇はこういうもの論 ―― から外れているのかもしれない。

けれど、とにかく世界中の全部が腐っているはずがない。

同時に、何度まちがえたって幸せになれないはずがないのだ。



信じていたものに裏切られると、世の中の全部が最低なものに感じるかもしれない。

もう二度と何かを信用するなんて無理だと思うかもしれない。
自分はこのまま不幸せなんだと思うかもしれない。

だけど、繰り返しになるが世界中の全部が腐っているはずがないのだ。


もちろん泣き叫ぶための口実として

「世の中の男はみんな!」
「女っていつもそう」
「会社はいつまでたっても!」

という主張は合言葉になる。


それを使って、ありったけ叫び、ストレスを発散して、休憩をして。

元気になったら「裏切られたとしても自分の正しさに従う強さ」を、ほっとレモンおじさんから学んで前をむこう。

世の中の全部が腐っているわけがない。
もう二度と幸せになれないはずはない。

幸い、ほっとレモンはたかだか150円くらいでどこのコンビニにも売っている。


文:中馬さりの
画像:旅と暮らしのおしゃれな無料写真サイト Odds and Ends

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