見出し画像

信じるということ

「相手に期待しても絶望するだけだから最初から相手に期待しない」と人は言った。
普段なら「まぁそういう人もいるよね」で終わらす言葉だが今回は違った。この言葉を言ったのは私の母だった。
衝撃だった。そして急に悲しくなった。大好きな母からそんな言葉を聞くなんて。そんな言葉、母から聞きたくなかった。

なんでそう思うの?と母に聞いた。深掘っていくと父との関係から積み上がった悲しみの経験が母をそうさせているようだった。私の兄が幼少期病気をした時に母が父に「ごめんね私のせいで」と言ったら父が母に「そうだね」と返したらしい。その後も父が「1人で気ままに生きていきたい」とぼやいたりして、そういった諸々の積み重ねがそれが今でも母の傷となっている。これだけ聞くと父が悪いような印象になっているが、「どうせ私が悪いから」と前置きを入れてしまう母が父をそうさせている部分もあり、これに関してはお互い様で良い悪いもないと思う。

母も自分の癖をわかった上で、でも悲しみの傷がどうしようもなく無意識に深くなっていった結果、他人に期待しないことで自分を守ろうとしたのだと思う。

人が発する言葉には、そういう言葉を選んだ思いや背景が必ずある。母も昔はそんな言葉を言う人じゃなかった。子供の前では見せないようにしていただけなのかもしれないが。7年間私や兄が親元を離れて暮らしてる間に母は暗くなっていった。最近コロナで世の中全体が暗くなってる影響も相まって母は精神的にもダメージを受けているようだ。

今回ひさびさに帰省をしたら母は小言や事務的な質問(ほんとにそれ聞きたいことなの?というような質問)が増え、また自分の話ばかりして対話があまりできなくなっていた。私自身も母と楽しく喋れる気がしなくて、母とご飯を食べていてもムッツリ黙るようになった。

そして今日、母の小言が火種となって私の中の感情が膨れ上がりケンカした。ケンカしてるうちに母が「いいよもう、しょうがない、結局お母さんが悪いんやけん。みんな好き勝手すればいい。お母さんはどうせご飯作る役割でおるだけやし」という言葉を発した。

「なんでそうなるん。おかしいよお母さん、なんでそんなに自分を責めるん?」私は母に泣きながら聞いた。
そうしたらこれまで結婚してからの経験が母にそうさせるのだと言う。そうして出た言葉が冒頭の「相手に期待しない」というものだった。

「相手に期待しない方が楽だし、傷つかないし、自分を守れる」
一理あるのかもしれないが私はこの考え方は嫌いだ。
私は相手に絶望することになってもいいから相手に期待したいし信頼したいと思っている。綺麗事かもしれないけど、本気で思ってる。
ジブリの名言でこんな言葉があるようだ。

人を信じるという事は、
相手への期待ではなく、
自分への決意なのです 

相手に期待すると決めて信じるのも自分、その結果どうなろうと起こったことは全部覚悟の上、そんな確たる決意がある人は強いなと思う。でもこれって「信じた結果裏切られたりしたけど結局調和した」みたいな経験を辛抱強く積み重ねていかないとここまでの境地には至れないと思う。

それでもそうありたいと願うことはできる。傷つくことはしんどい。それでも、人を信じること、人に期待することって素晴らしいことだと私は思う。(もちろん詐欺まがいの信用ならん出まかせ太郎に関しては例外)身近で生きている人を信じず、期待せず生きていくのって虚しい。それは今は期待しないことで平穏かもしれないが、いつか爆発すると思う。

芦田愛菜ちゃんの言葉も思い出した。

『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

元々期待してないものに裏切られることより、期待してたこと、正しいと信じていたもの、尊敬していた人、それらに裏切られることの方がよっぽど辛い。私も現在進行形で大尊敬していた大好きな人に疑いを持たざるを得ない環境に身を置いてその苦しさや辛さを経験している。でもそれでもその人のことを信じたいと思っている。その人の一面としてネガティブなものがあるかもしれないがこんな時こそ他にたくさんあるはずの素敵なものの方も見るようにして、自分の直感に従って信じたいと思っている。

人はみんな不確かだからこそ、信じたい、期待したいというポジディブなエネルギーに引っ張られるくらいがちょうどいいんじゃないだろうか。今日考えてること、明日考えてることだって全然違ったりするんだから、今日その人がどうであろうと、明日は違うかもしれない。

母の場合はきっと父に期待をたくさんしてきた分、もう期待しない方がいいと経験によって悟ったのかもしれない。それはとても悲しいことだ。でも私は母にも期待すること、信じることを諦めないでほしいと全力で願っている。私のエゴ丸出しでそうあってほしいと思っている。

同じ自分だとずっと相手も同じ態度や言い方になるけど、少し自分を変えてみたり、幸せな気持ちでいっぱいの状態で話したりすると意外と相手の反応がコロッと変わったりすることなんていくらでもある。

そのためにも母には全力で幸せであってほしいと思うし、自分を責めず卑下せず、全力で自分大好き!なナルシスト母であってほしいと心から祈っている。そういう母を信じたい、と思っている。
そして私はこれからも人に期待しまくって人を信じまくって不確かなものばかりに流され揺さぶられながら何がなんでも生きていこうと思う。

確かなものにはKeep, hold on
なら明日のことなどNo, no baby
今日だけ見つめてPlease stay strong
毎日がBirthday, we are babies

藤井風「燃えよ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?