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“お茶代”5月課題 by.脱輪氏 「指定の書き出しで」(小説 『かの女』)

《かの女》

会話が有料化された。
理由や仕組みはまだ発表されていない。
とりあえず今日、いくら持って街に出ればいいのだろう?
財布を確認すると1万円札が1枚と5千円札が1枚、千円札が3枚入っている。職場までの交通費と食費を賄うにはまだ数日分あるな、と考えながら財布をズボンのポケットに突っ込んで、玄関のドアを開いた。
今となっては、会話の為の出費は滅多に起こらないので多くの予算は必要ない。それに自分は以前と変わったこの世に上手く対応しているという自負もある。
今日も一日頑張ろう。
ひとつ伸びをしてから、街に足を踏み出した。

世の中が変わってから5年以上が経った。
自分は今の情勢ををわりと気に入っているが、会話が有料化して最初の方はそれなりのパニックが起こったのを覚えている。
まず未だによく分かっていないこの制度を理解する事から始まった。
そもそも会話とは二人以上の人間が互いに言葉を交わすことをいうが、どうやらこの世では、その言葉のキャッチボールをしようと言動し、成功した者に料金が科される仕組みとなっているらしい。1回の料金はあまり安価ではないようだ。
人々はその仮説の元、節約の為に会話を回避して生活する努力を始めた。
しかし回避の失敗が続く者はあっという間に貯金が底をつき、おしゃべりクソ野郎だった友人は自分の気持ちを自由にアウトプット出来ないストレスから鬱を発症し、恋愛オバケだった昔の彼女は愛の言葉を交わし合う事が出来ずに心が枯れていった。
自分は元々会話が好きではなかったからそういう苦しみとは無縁だった。会話をするには話す内容を決定する為に脳を使い、発声の為に肺を膨らまし、口の筋肉を動かさなければならない。相手に気を遣わねばならない事も含め、自分にとって会話は全てにおいて疲れを感じ楽しくなかった。近所の人との挨拶も面倒だった。更に自分は他人に対してさほど興味もないし、誰かに自分の気持ちを知ってもらいたいという気持ちもない。だから世の中が変わって会話が減ったのは、単純に嬉しい事だったのだ。
それに、人々の交流もとてもシンプルになった。
仕事や生活に必要なやり取りは自己申告制になった。誰かが「私は今から○○をします(したいです)」と宣言する。周りの人々は返事はしないものの、その宣言に合わせて自分の身のこなしを決定し実行に移す。宣言者はその結果を待ち、その結果に対して必要な行動を起こす。“宣言”はまるで車のウィンカーのようで滑稽に感じるが、相手の目的だけが理解し易くなったこの世の中では買い物も仕事もシンプルに動くようになったし、相手が宣言をしなくて良いようにと思い遣りの行動をとる者や、宣言するより自分で動く方が良いと考え自ら動く者も増えた。それに、宣言に対して満足な結果が得られない場合は宣言者に原因があるとみなす風潮がいつの間にか流れ、不便を感じる者は成功率を上げる為に自らの言動や身なりを見直し改善するといった事も増えた。それは家庭内でも同じだった。
そして、この新しい世の中に馴染めない者は、みな壊れたり死んだりしていった。

因みに、このような世の中だが結婚率は思ったより減っていない。結婚は、宣言と行動から感じられる価値観と肌の合う者同士が、利用可能な制度を使用する為のものとするようになったからだ。パートナー達は安定した生活を目指し結婚を利用していく。つまり、いまの結婚はロマンチックなものではなく便利な仕組みとして捉えられている。
対し、友人関係や今までのような恋愛関係はだいぶ減ったように思う。互いの感情や思い出を共有する為に一緒に遊んだり会話を楽しむのが目的のこの関係が、会話の有料化によって制限が掛かり難しくなったからだ。所持金の少ない若者達は特にそのようだ。レジャー施設も徐々に減っていった。それに独り言の書き込みが可能なSNSの存在や、様々な文化の発展により寂しさを回避する為の仕組み、会話を要さず1人で楽しめるコンテンツが増えてきた為、人々の我慢が上手になったこともある。自分のように今の世の中に楽さを感じる者もいる。
強いて言えば、恋愛は肉体関係に成り代わっているように思う。人肌が恋しい時の手段であったり、結婚の前準備として肌の相性を確かめる手段であったりと、色々な目的で行われている。それに、会話を用いずに取れるコミュニケーションとして優秀な為、肉体関係を利用する者もいる。また、自分のように単に趣味という場合もある。独りで街にいる目が合った好みの女性に近寄っていけば致せる確率はなんとなく分かる。避けられなければ「自分はこの後、何時に何処で何をする」と宣言をする。その場所で再会出来れば相手の手を取り街に消えればいい。普段から言動と身なりに気を遣っている為、成功率は低い方ではない。そして何より同じ趣味の人間は結構いるものだ。応じるにも拒否するにも会話を要せず、合言葉のような手順で肉体関係を結べるこのような方法は、今の世の中ではある種の文化になりつつあった。

酒好きが高じて就職した職場のバーはこの世の中にとっては少し特殊な場所となっている。営業中の店内が会話で溢れているからだ。以前からそれなりに会話で賑やかな場所ではあったが、有料化してからはより賑やかになった。みな以前より高い出費を強いられながらもスタッフに会話を持ち掛ける。
数年前に「いやぁ、会話にお金が掛かるとしても、ここだと生活圏外だから気軽に話せるじゃない。自分の事とか愚痴とかを、相槌を打って聞いてもらえるじゃない。美味しいお酒を飲みながら、ね。この事には価値があるんだよ。前から感謝してたけど、貴方たちの仕事はこの世になってから特に感謝だわー。」と酔っ払いながらベラベラ喋っていた客がいたが、きっと他の客も似たような目的で来店しているのだろう。「この店はお前らのゴミ箱かよ」と苛立つ反面、自分を含めた全スタッフが客の話に相槌を打ったり質問に答えたりする事が有料化以前よりも仕事の一部だと感じるようになっていた。自分も会話は嫌いだが、仕事中だと愛想良く振る舞えたし、ここでの自分の役割を果たすだけなら相槌も質問の回答も適当な言葉のキャッチボールに過ぎない。聞いた事は程々に聞き流せば自分の心の負担にはならないような気がしていた。因みにこの店ではスタッフから客へ会話を持ち掛ける事は基本的にしない事になっている為、会話による出費はほぼ発生せず、安心して仕事に励む事が出来た。
しかし、よくよく考えるとそもそも自分は会話ではなく酒が好きでここで働いてきたはずだ。丁寧に作ったカクテルを提供する事や、お勧めの酒の香りや味を客と共有する事が好きだし、客を通じて発生する酒との新しい出会いもしたかった。だがこの店での客は、会話において自分の事を話す以外の出費は節約傾向にある。今現在、自分が酒に関わる事といえば「○○な○○が飲みたい」と宣言する客の要望通りの酒を提供するだけ。以前なら当たり前に確認出来ていた言葉での味の感想さえ今は聞く事が無い。頷いて飲み続ける客に笑顔があれば気が休まる程度だ。近頃やりがいや楽しさが減った事を感じ、仕事を辛く思う日が増えてきた。ゴミ箱係が主な仕事になるならこの仕事もそろそろ潮時か、と思うようになっていた。

そんな中、数ヶ月前から風変わりな客が来るようになった。サラサラの黒髪を肩下まで伸ばし、いつも無地のトップスにロングスカートの細身の女。空いている席を見つけるとスッと座り、飲みたい酒を宣言する。その後バッグから眼鏡とカバーを掛けた本を取り出しひたすら読書に浸る。会話は一切しない。眼鏡と本でバリアが形成されているのか、周りの客も話しかけないし気に留める様子もない。彼女の座る席だけがぽっかり違う世界のようだった。 ただ、酒は実に美味そうに飲む。基本的に無表情な彼女だが、好みの酒を飲む時の一口目はいつも目元がパッと明るくなる。その後目を細め、じっくり味と香りを味わう様子が伺える。その間読書は進む様子がない。彼女が飲む酒の種類は様々で、バーボン、ダークラム、ブランデー、ジン等々…テキーラをストレートで舐める様に飲んでいた日もある。どうやら甘ったるい香りの酒が好みのようだ。毎回2杯の酒をゆっくり楽しんだら帰っていく。酒好きの自分にとって、会話ではなく、酒に重きを置いて来客してくれる彼女はいつも特別に見えた。

彼女は大体週に1〜2回来店する。今日は来るかと考えながら職場に向かう足はどことなく軽くなる。桜咲く道を足速に進んでいくと程なく店に到着した。挨拶をせず店内に入り、無言でいつものルーティンを始める。着替えをしたらまずは床とトイレの掃除。済んだ頃に酒の配達が来るので受け取る。氷とおしぼりの配達は他のスタッフの担当だ。各々のルーティンは決まっており、昨夜の洗い物の片付けとテーブルの拭き上げ、買い出しなどは他のスタッフが行っている。会話の無い静かな店内で、今日も変わらず開店への準備は着々と進んでいった。

彼女が来店したのは21時を過ぎた頃だった。
平日の中日でいつもより空席が多い店内を見渡すと、今日は自分が担当する奧の方の席に座った。
「いらっしゃいませ」の代わりにおしぼりを出すと彼女は「辛めのブラックルシアンが飲みたいです」と宣言した。ブラックルシアンはウォッカとコーヒーリキュールを2:1で割るカクテルだが、その割合だと結構甘ったるい。どのくらい辛めにするかと悩んだが、今日はいつも飲んでいる酒よりは甘いものが飲みたい気分なのかもなと判断し、ウォッカを注いだグラスに味と甘みが分かる程度のコーヒーリキュールを垂らしてステアした。
完成したブラックルシアンを読書中の彼女の前に無言で提供し、片付けをしながら横目で彼女の様子を眺めた。無表情のまま本から視線を離した彼女は細い指でグラスを包む。丸氷がカラリと音を立てながらグラスが口元に移動すると、彼女は舐めるようにそれを口に含む。すると目元がパッと明るくなった。そして目を細め、舌の上を転がる酒の味と香りを楽しんでから喉を動かした。どうやら気に召したようだ。ホッと胸を撫で下ろした自分は、彼女が読書に戻る姿を確認しながらチャームのナッツとチョコレートをそっとグラスの横に置いた。

2杯目に炭酸で割ったカルヴァドスを飲みながら彼女は読書を続けていた。原料の林檎の存在感を強める為に少しレモンを搾って入れたのだが、その違いには気付いてもらえただろうか。想いを馳せつつシンクを片付ける。洗った食器を拭きながら彼女の方に目を向ける。三分の一が減ったグラスを見ながら、まるで砂時計のようだな、と思った。残りが無くなれば彼女は帰っていく。時刻は22時をまわっていた。

その時だ。自分でも驚いた。
「何の本を読んでいるのですか」
と思わず口に出してしまった。
枷を外したように急に脳内を駆け巡る思考が煩い。
凛とした佇まいで酒と読書を楽しんでいた目の前の彼女は静かに顔を上げて言った。
「さぁなんでしょうね。でも私は、これを貴方が作ったお酒を飲みながら読んでるの。」
本を閉じ、眼鏡を外しながらニマリと微笑む彼女は真っ直ぐ自分の目を見てきた。息が詰まりそうになり、脳内が一層煩くなるのを感じた。
「今日は閉店後、ここから1番近い公園の大きな桜を見に行きます」
自分がそう宣言すると彼女は再び微笑み、程なく読書に戻っていった。

0時の閉店後、締め作業と酒の発注を手早く済ませて店を出た。月の大きな夜だった。公園まで10分は掛からない距離だが、時刻は0時半をとうにまわっており、彼女が退店してからは1時間以上が経っている。少し無謀な宣言だったかもしれないと気を落としながら公園に到着した。その公園はどちらかといえば田舎と言えるこの街では少し大きめの公園で、昼間は子供たちで溢れかえるが夜は明かりが少ない為人影が無くなる。周りを見回しながら静かな公園を進み始めた。
目的地まであと少し。公園内では遊具を様々な樹木が囲むが、桜は1本しかない。それはとても大きな樹で、街の人々から愛されている。
次第に月明かりで淡く光る桜の樹が見えてきた。
目を凝らすと彼女はそこに立っていた。桜の下で上を見上げている。静かに隣に立ち彼女の視線を辿ると、花の隙間から見える月を眺めているようだった。
自分は挨拶と待たせてしまった謝罪を兼ねて彼女にお辞儀をした。すると彼女は月から目線を外し、自分に一歩近寄るとニコリと微笑んでみせた。
本と眼鏡のバリアを持たない彼女の微笑みはスッと心に染み入るようだった。趣味の時には感じない感情と使わない言葉が湧き上がるのを感じた。
溢れそうな感情と言葉を心の中で整理するのに時間を要していると、彼女は自分の手を取り顔を上げ、今度は桜の花を見始めた。手を繋ぎながら並んで5分以上経った頃だろうか。どちらからということもなく、2人で街に消えた。

彼女は案外そういう事が好きなようだった。
部屋の扉を閉めるとすぐに身を寄せてくる。
微笑みながら自分を見上げる彼女にキスをすると、酒の香りがして彼女の言葉を思い出した。
『貴方が作ったお酒を飲みながら読んでるの。』
もっと自分の全てで彼女を満たしたいという衝動で全身が満たされていった。
彼女は目を細めながら嬉しそうに全てを受け入れてくれた。

心地良い疲労感から目を覚ますと数時間が経っていた。彼女はすでにシャワーを浴び終え身なりを整えていた。バッグを手に取りベッドに近寄った彼女はキスをしてニコリと微笑んだ。
「これから閉店後はあの場所に寄ってから帰ることにします。」
自分がそう宣言すると、彼女は嬉しそうに笑顔を見せて部屋を出て行った。

それから、しばらく彼女との関係は続いた。
彼女はペースを変えず来店し、席はなるべく自分が担当する席を選ぶようになった。身に纏う雰囲気や言動は変わらないものの、自分の目には彼女の姿が今まで以上に特別な輝きを放って視界に入るようになった。ベッドでの情事を思い出しながら作ってしまったカクテルを彼女に提供した際は、彼女の微笑みがニマリとしたものになり、なんだか心を見透かされているような気になった。
桜の下では週2回ほど彼女に出会う事が出来た。
顔を合わせれば抱き合い、キスを交わし、街へ消える日々。身体の相性は良かった。
また、店で自分が作った酒を飲んだ後の彼女は妖艶さを増すようだった。ある日は特に積極的で、あまり執拗に自分を舐め上げるものだから頭がクラクラした。別の日にはベッドに横になった自分の身体に触れる彼女が自分を見下ろしながら愉快そうな笑顔を見せてくるので、逆に押し倒して滅茶苦茶にし、その表情を歪めてやりたくなった。対して、酒を飲まずに会った日にはやたら照れて手で顔を隠すので、そういう日は手を押さえて彼女の表情から目を離さずに腰を動かす事もあった。

こうして、会話はなく身体のコミュニケーションだけが深まっていった。脳内で溢れる言葉はあるものの、いざ彼女を目の前にすると口にする余裕はなかなか生まれない。しかし、会う毎に彼女の笑顔が見られて嬉しかった。2人でいる時はいつも笑顔の彼女に心から癒された。気付けば趣味は過去のものとなり、彼女がいればそれで良くなっていた。自分には店で見る不思議な彼女ではなく、ベッドで見る笑顔の彼女が全てだと思えた。
近頃は自分とのこういう時間が目的で店に来続けていたのではないか、と思う事さえある。
だってわからない。
どうしてこうなっているのか。
彼女に質問しようにもなかなか言葉が出てこない。有料化に伴い自分から会話をしなくなった事による弊害か。
ただ一つの事実は、自分が彼女に恋をした。
よってあの日思わず口から言葉が出た。
それだけだと思う。

彼女との関係も半年が過ぎ、桜の葉の色が変わり始めたある日のこと。いつもの場所に立つ彼女の雰囲気がいつもと少し違った。彼女はいつだって凛として、自分の意志を持ちそこに立っているような強さがあった。しかし、その日は凛と立ってはいるが、心ここにあらずという感じがする。何を見ているのか、そもそも焦点が合っているのかさえよく分からない。心配しながら近寄り顔を覗き込むと、彼女は少し驚いた表情を見せた後、力無く微笑んだ。
そして抱き付いてきたので自分は心を込めてゆっくりと頭を撫でてやった。彼女のサラサラの髪が指をスルリと抜けていく。しばらくそうした後、彼女は顔を上げると力無い表情のまま自分の手を取り街へ足を向けた。

部屋に着き扉を閉めると、彼女は風呂場へ手招きしてきた。湯を溜め、脱衣所で服を脱ぎ、キスをしながら互いの身体を洗った。その後、彼女を後ろから抱き締める形で湯船に入っていると、彼女は膝を抱え、暫く湯の表面をジッと眺めていた。少し経ってから顔を覗き込むと彼女は微笑みながらキスをしてくれたので、そろそろ風呂から出ようと促した。

その日のベッドでの彼女はいつになく丁寧だった。
表情に力は戻らないものの、微笑みは絶やさずいつも以上に優しく全身に触れてくる。自分も応えるように彼女の全身にキスをした。
しかし、時間を掛けて足の先まで達した時だった。ふと彼女の様子が気になり視線を上げると、彼女の目から涙が流れている事に気が付いた。思わず「大丈夫ですか」と声を掛ける。彼女は涙を流したまま俯いた。すぐに身を寄せ抱き締めると、彼女は自分の胸に顔を埋めワッと泣き出したので驚いた。更に心配になった自分は「何かありましたか」と尋ねた。彼女は顔を上げずに一言「私の居場所が無くなった」と言った。

そのまま暫く頭を撫でながら彼女を抱き締めていた。どれだけの時間そうしていたか分からない。長かったような気もするし、そうでないような気もする。その間、自分は彼女にどのような声を掛けるべきか考え続けた。
やがて泣き声は小さくなり、彼女は少しずつ落ち着きを取り戻した。ごめんなさいと小さく呟く彼女に自分は考え抜いた言葉を伝えた。
「僕は貴女が好きです。僕はずっと貴女の味方です。僕に出来る事は何かありませんか」と。
彼女は自分の顔を一目見て、すぐに視線を元に戻した。そして、少しの沈黙の後「何でもしてくれますか?」と尋ねてきた。自分は勿論「はい」と返す。
「じゃあ…私の首に手を掛けながら挿れて」
と彼女は言った。

驚きながらも彼女の顔を見ると再び目が潤んでいる。自分は彼女の願いを聞き入れる事にした。
彼女の額にキスをしてから愛撫を始める。
彼女にも触ってもらう。
何故だろう、息が詰まりそうだった。
その理由は愛しさだけではない気がした。
ひと通りの前戯を終え自分は彼女の首に触れる。
細く白い彼女の首はまるでこの世で1番美しいものに思えた。
左手でそっと首を包み、右手で挿れた。
そして右手も首に添え、少し力を入れると彼女が小さく声を上げた。
そのままの体勢では動く事が困難だった為、右手で首を持ち、左手で身体を支えながら動いた。
不安定な体勢により力は入れたり入れなかったりだったが、首から手を離さずに動いていると、いつの間にか彼女が再び涙を流していた。その様子を見て、次第に何故か自分の目にも涙が溢れてきた。それから暫くして、そのまま2人で泣きながら果てた。

1時間程眠ってから目を覚ました。
夢を見ていたような気がするし、見なかったような気もする。ぼんやりした眼をこらしながら部屋を見回すと、彼女の姿が無かった。
慌ててベッドから起き上がり、風呂場や玄関等を確認するもその形跡は見当たらない。
彼女は既に部屋を出ていた。
ひとつ息を吐きベッドに戻ると、サイドテーブルの上に丁寧に四つ折りされたメモを見つけた。
緊張を覚えつつゆっくりメモを開く。
しかし中は白紙であった。
自分はそれをサイドテーブルに戻すと布団を頭から被って目を閉じた。

それから彼女は一度も姿を見せなかった。
店にもいつもの場所にも、まるで何処にも現れない。しばらく経てばいつかまた会えるだろうと思っていたが、そのいつかはいつまで経っても来なかった。最初の数ヶ月は街でも店でも常に彼女の姿と面影を探していた。居場所を無くしたと言っていたが、彼女は一体何処に行ってしまったのか、どのように過ごしているのか、そもそも生きているのか…。
会えなくなった彼女に心の中で何故と問い掛けるも返事は返ってこない。しかし、次第に自分があまりにも彼女について知っている事が少ない事に気が付く。思い返せば会話は、本について尋ねたあの一言と、彼女が涙を流したあの夜に掛けた言葉のみでしか行われていなかった。半年も一緒に居たのに、だ。もっと彼女と会話をしていれば、自分が彼女の居場所に成れたのではないだろうか。もっと彼女を知っていれば、あの涙の理由を深く理解出来たのだろうか。そうすれば彼女は自分の前から姿を消す事は無かったのではないか…。
更に自分は彼女の名前さえ知らなかった事に気が付き絶望する。そして自分がその名前を一度も呼べなかった事を何より後悔した。

それから更に数ヶ月が経った。突然彼女を失った喪失感は暫く自分を苦しめた。彼女の首の感触はいつまでも手に残り、こびりついて離れる事はなかった。ふとした時に彼女の笑顔が脳裏から呼び覚まされる事が続くと、心にぽっかり空いた穴が次第に大きくなり自分の心を蝕むのが分かった。
そして今日、自分は生まれて初めて何もかもがどうでも良くなる感覚を覚えた。明日、何もかもを手放してしまおう。そのような事を考えながら、自分はゆっくりと目を閉じた。

〈終〉

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