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35歳のゆとり入門

28歳で世界一周に出て、帰国後はフリーランスでできることを色々とやってきた。

人付き合いが極端にニガテな私にとって、会社以外にも働く場所があると知ったことはとても大きく、

おかげで社会人1年目にうつ病になって寝込んだような大きなストレスもなく自由に生きてる。

それでも、35歳の今、自分の人生を再構築しようとしている。


やってみたかったことは一通りやったなぁという思いがある。

カフェで働くことも、お店を持つことも、アクセサリーを作ることも、

会社員の頃の私がみたら、驚くようなことばかりだけれど、

夢を叶えること自体は、そんなに難しいことじゃなかった。

思い切って手放す、思い切って踏み出す、

なんでも楽しむ、人や環境のせいにしない。

そういうポジティブな「覚悟」さえあれば、あとは好きな「肩書き」を自分で決めてしまえば良いだけだった。


でもここにきて、ちょっぴり「頭打ち感」な私がいる。

いつもがむしゃらに、何か成果を出さなきゃと焦っていた。

それが新しいことに挑戦する原動力にもなっていたけど、人生この繰り返しだったら結構しんどいなぁ、という思いがここに来てモワモワ湧いてくる。


そんな時に、一緒に暮らす7つ年下のパートナーを見ていて、

昭和世代と何かと比較されることの多い、ゆとり世代の価値観から見る世界ってどんなものなんだろう、そう思い始めた。

「ゆとり」と一括りにすると語弊があるかもしれないけれど、

ゆとり世代を自認する彼を日々観察していると、つくづく面白い生き物だなぁと思う。


注ぐエネルギーの場所がまるで違う。

人に気を使わない。

世間体や常識を気にしない。

他人から勧められても興味がないことはやらない。そもそも聞いてない。

頑張ればできることはがんばらない。

サボり上手。ラクし上手。

誰といてもどこまでも自分のペース。

(↑どれも批判しているわけではないのです、あしからず。)

余計なことにエネルギーを使わないから、いつも無理がなく、自分に正直。

心にゆとりがあるから、感情が一定で一緒にいてラク。


そんな彼を見ていると、

「何をするか」よりも「どう在るか」の方が大切なのかも、と思えてくる。

どんな生き方をしていても、その人の本質は変わらないし、その本質の部分で人と人はつながるんだし。


そろそろ、「何を成し遂げるか」よりも「どう在るか」にシフトを移しても良いのかもしれない。

「がむしゃら」に頑張る昭和の価値観から、「程よく力の抜けた」ゆとり世代の価値観へ。


何かを成し遂げたから「わたし」が存在するんじゃない。

わたしはいつでもわたしで、ここに存在する。

がんばってもがんばらなくても、わたしはいつでもわたし。

「非日常」のわたしだけじゃなく、なんてことない「日常」のわたしも好きになる。

がんばらないわたしも認める。

完璧じゃないわたしも認める。

全部できないわたしも、ゆるす。

そのまんまのわたしを、ゆるす。


昨日思い切って、「家事をやりたくないよー」って伝えてみた。

幻滅されるかもってすごく怖かったけど、

彼はいつもと変わらないテンションで、「気が向いた時にやろ。ガマンもムリもしちゃダメだよ」と返してくる。

ホッとした。

部屋が多少散らかっていたって、私たちは昨日までと変わらず子どもみたいにケラケラ笑って暮らしている。

こんな、やわらかい世界もあったんだ。


この「怖い」「嫌われるかも」ってどこから来るのかなぁって思ったら、

私はいまだに、しつけの厳しかった母親に怒られることを怖がっていたんだって気づく。

そんな母親を大人になってからずっと嫌いだったけれど、

きっと母も母で無意識に受け継がれて来た「昭和」の価値観の中で、がんばって生きてきたんだろう。

もう、がんばらなくて良いんだよって伝えてあげたい。

そんな風に思える自分に驚く。

ゆるめて、ゆるす。

ゆるんだら、ゆるせる。

相手も、自分も。

人生はこれからも続いてゆく。

ゆるんだ先にあるわたしを見てみたい。

ちょっぴりルーズでのんびりな、やさしい世界を見てみたい。

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Photo @Nepal 2012年夏。インドのバラナシで今のパートナー(写真右)と出会い、ネパールを一緒に過ごした。人も動物も穏やかで、時間の流れがゆったりした国だった。


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