『馬鹿が戦車(タンク)でやって来る』(1964年)

2011年12月29日(木) 新文芸坐

ハナ肇の、疎外された者の表情。

喜劇に見せかけて、かなり重い。

耳の遠い老母(飯田蝶子が素晴らしい!)と頭の弱い弟(犬塚弘)と共に、掘っ立て小屋に住むハナ肇。
貧しく、ばかにされている一家。
しかし、飯田は耳が遠いということで世間の嘲笑も耳に入らず、案外幸せそう。
犬塚弘は鳥になりきって、いつも楽しそう。
ハナだけが、いつも怒りをたぎらせている。

淀んだ空気の流れる村。

元地主の頑固じいさん(花沢徳衛)とハナ肇は土地をめぐっていがみ合う。
頑固じいさんの娘で体が弱い岩下志麻は、淀んだ村の中の掃き溜めに鶴的存在で、ハナのことも差別しない。

岩下は、自分の病気が治った祝いの席にハナを招待する。
珍しく床屋に行き、一張羅のボロの背広を着て祝いの席に向かうハナを村民はあざ笑う。

この村民たちの悪意を、映画はグロテスクな悪意とは描かない。
もしこの村民と共にハナを笑うなら、観客のおまえもこのいじめの構造に加担している、とでも言うように。

祝いの席で追い払われ、ハナは傷つく。
傷ついたハナは何をしでかすかわからないと戦々恐々とする村民たち。
が、何も起こらず、いつの間にか皆ハナのことなど忘れる。

忘れたころにハナは、ひそかに隠し持っていた戦車で村をメチャメチャにする。
恐れをなした村民たちは落とし穴を作るなどするが、ハナの暴走は止められない。

どうしようかと村民たちは頭を悩ます。
と、物見台に登っていつものように鳥のまねをしていた犬塚弘が、台から落ちて死ぬ。
自らの死によってハナの暴走を止めようとしたかのように。
弟の死を知ったハナは悲しみに暮れる。

村民たちがハナの住み家を訪れると、飯田蝶子が仏壇の前で泣きながら念仏を唱えている。
村民が呼びかけても彼女が振り向くことはない。
ハナの姿はなく、村民たちは戦車の車輪の轍を追ってゆく。

映画は、村民3人と警官が車輪の轍を追うさまをかなり長めに描く。
轍は村を越えて町まで延びていた。
岩下志麻の主治医の町医者が、ハナが死んだ弟を診せに来たが、もう死んでいて手の施しようがないと告げると、弟を抱えて去っていったと告げる。

さらに轍を追うと、それは海岸まで延びていて、戦車は海に消えたようだ。
呆然と立ち尽くす村民たち。
その表情にあざけりはなく、戦慄のようなものがある。

この話が、村に起きた昔話として、釣り船の船頭(東野英治郎)の口から客(谷啓と松村達雄)に語られる、という形式。

さらに後日談があり、その数日後にハナはひょっこりと村に現れ、老母を伴ってどこかに行ってしまった、と。
この話は東野の口から語られるのみで、もはや映像としては出てこない。

話を聞き終えた二人の客は、その事件のあとで村も随分いい方向に変わったのではないかと言うが、東野は「村は何も変わらなかった。村民たちは、今ではすっかりそのことを忘れている」と告げる。

ハナたちが住んでいた廃屋の前をスーッと通り過ぎる巡査の自転車の映像。
ハナが戦車で作った道は、今ではタンク道という名がついている。
生々しい記憶が風化して、すべてが忘れ去られ、何事もなかったかのように、また同じことを繰り返すということ。

主治医と結婚して今では町に住む岩下志麻は、里帰りのときにいつもタンク道を使うということも映像と共に語られ、映画は終わる。

ハナの映像は、ハナと老母がとぼとぼと弟の死体を台車で運ぶ長回しの映像を最後に、出てくることはない。
その深い深い悲しみの姿を、あえて映像化しないということ。

犬塚弘の頭の弱い弟の描き方は、田中登の『㊙色情めす市場』を思い出す。


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