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『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公は誰だ問題

みなさんはご覧になったでしょうか『ボヘミアン・ラプソディ』。私は2回見ました。

2回とも文章を書くつもりで行ったのではありませんでした。1度目はネットの評判が興味深かったので空き時間にひとりで、次に知人が見たいと言うのでおつきあい、くらいなものです。次に書くのもフランス映画だろうなと思っていましたし、2度とも映画館では泣いてばっかりでした。

でも2度目の鑑賞後、しかもしばらく経ったあと、高まってしまいました。一緒に見た知人ではなく、別の知人と話したとき「自分にとってはイマイチだった」と聞いて、熱く語り合ってしまったからです。まあ熱く高まったら出すしかないですよね。

公開中の作品なのでDVDでシーンを何度も見るわけにもいかず、感想と妄想だけの、これがエッセイというのでしょうか、よくわかりませんが、エッセイなんて書いたことないけれど、まあこれも人生。

申し遅れました、フランス映画好きという名前でnoteを書いています。ちゃんとしたペンネームを決めないと…と思うのですが、難しくてぐずぐずしています。

もともと映画を見たあとに大勢でワイワイ気軽に話し合えるようなリアルイベントを作りたくて、映画について勉強しようとキネプレアカデミーに通いました。もちろん今もそういうイベントを企画できたらと思っています。

私がこの文章を書こうと思ったのも、同じ作品を自分とは違った視点で見た知人との会話からです。作品をみたらあれこれ感想が浮かぶのは自然だし、それを語り合えるリアルの場があると楽しいですよね。

さて、フランス映画好きと名乗っている割にフランス映画についてあんまり書いてないんですが、それを「さておく」くらい、また「DVD出て各所を確認してからじゃないと」と思うくらい恐がりの私を、勢いで一気に書かせてしまったのが本作『ボヘミアン・ラプソディ』です。

以下、あらすじはあまり書いていませんが、作品の最後に触れています。フレディやクイーンについては「その後」もよく知られているので、何がネタバレになるのか私もよくわかりませんが、どうか未見の方はご注意ください。

さて『ボヘミアン・ラプソディ』、監督や俳優についての詳細、またその監督も俳優も二転三転して…といった逸話もいろんなところで紹介されていますので今回は割愛させてください。ほかにとても書きたいことがあるので、ちょいと先を急ぎます。エッセイですしね、気軽に。

とは言いながら、どうしてもスルーしたくなかったところが2ヶ所あったので、それだけお話しさせてください。ひとつはカメラワーク、もうひとつは台詞。

もうね、カメラさんのいい仕事いっぱいあるんです、メンバー4名が再びひとつになったときのグランドピアノへの反射とか、いやいやもうやめときます、今日はひとつだけ。

伝えたいことを、直接撮らない

フレディが医師に「HIV治療薬の効果は…」みたいな宣告をされるシーンです。

ここ、医師の言葉を聞いたときのフレディの心象が、彼のサングラスに反射する景色だけで表現されているんです。

出典:imdb ●病院シーンのみならず、サングラスに映る像が雄弁な作品でもあります

表情じゃないですよ、だってサングラスかけているから表情は見えない。スクリーンで確認できるのは、サングラスに反射した景色だけです。

DVDがあったらちゃんと見て確認して内容を描写するんですが、ないものは仕方がない。詳しくは覚えていませんが、サングラスに映る景色はこんなふうに変わっていきます。

●最初は目の高さに映るもの

●映るもののポジションがだんだん下がっていき…

●最後は自分のヒザの間が映って…

このシークエンスは終わります。

カメラ、しっかり語ってます。宣告を受けたときのフレディの視点、姿勢、そして視界の変化。それは彼が、自分の事態を理解していく過程です。衝撃、反芻、飲み込み。見る私もこの過程をじっくり踏むことで、最後にヒザの間がカメラに映ったときには、彼と一緒になって絶望感を味わいました。

顔の表情を追う「客観ショット」でなく、彼が目にしているものを直接撮る「主観ショット」でもなく、間接的な主観ショットであるサングラスに映った景色と、パンの速度だけで、彼の内面に起こったことを私に追体験させるなんて。

何かを伝えるときツールになりえるのは言葉だけじゃないなあ、映像ならではの表現ってこういうことだよなあ…と、うなりました。

もちろん脚本にも、ここにト書きがあったんじゃないかと思います。しかし今回あちこち検索したんですが脚本が見つからず。検索の仕方がよくないのかもしれません。どなたかご教示くださいましたら幸いです。

出典:映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト ●このシークエンスも好きです。フレディとポールのカットバックの妙、さらに両者のショットの違いが、関係性の変化を語っています。また雨のSEが粒立っているんですよ

「friend」、繰り返した?

脚本が見つからないといえば、次にご紹介するシーンも「脚本があれば確かめたい!」です。

「世界八十二ヵ国語に通暁しているが英語だけは少々苦手」((c)『乱調文学大辞典』筒井康隆さん)な私なので、以下、聞き取りが間違っていたらごめんなさい。ご教示くださいましたら修正いたします。

後半、クライマックス直前。フレディが大切な人を連れて実家へ戻ったとき、彼のことを「friend=友人」だと、父母および妹に紹介するシークエンス。

友人といいながら、ソファの肘掛けに置いた彼の手をフレディが握るカットがクローズアップされます。

出典:映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式サイト ●フレディは家族に恋人のことを「friend」と紹介する

そしてその次のカット、フレディの母がこう言うんです。

「it’s good to have a friend」(友人を持つのはいいことだわ)

ここ、英語に詳しい方がいらしたらぜひお尋ねしたいんですが…。

一般的に、同じ単語の繰り返しを嫌いませんか。普段の会話ならフレディが「friend」と発声すれば、母は「it’s good to have one」みたいに言い換えたり、あるいはシンプルに「it’s good」で終えたりしそうです。

しかし彼女は「friend」とという単語を、あえて繰り返すんです。フレディが恋人の手を握ったカットの直後に。カメラが母親をとらえるアングルも、またショットも、編集も、ごく普通。きわめてナチュラルで、とくに含みをもたせた撮り方も切り取り方もしていない。不自然な(ように私が感じた)のは、台詞だけです。

息子の仕草を見て母は、その「友人」がいわゆる「友人」ではないことを知った。でもフレディがどうしても「友人」としてしか紹介できなかった複雑な心持ちを理解して、あえて「friend」という言葉を強調するように、英語の会話ではあまり行われない「リピート」をしたんじゃないかなと私は想像しています。

●息子の恋人選択と、そうとは宣言できない心境を受け止め、
●わかったよと息子にサインを送り、
●同時に、場にも配慮した、

完璧な答え。

母と子の間で成立した、コール&レスポンス

もしこの会話が実際に交わされなかったものだとしたら、この会話を生み出した脚本家(と、さりげないショットにとどめた撮影監督)はすごいです。

実際にあった会話なら、もちろんフレディのお母さんもすごい。そして、その会話を脚本に残した脚本家は、やっぱりすごいのです。

たとえば(ああ止まらん)冒頭はライブ直前→かつての家庭でのフレディ、エンディングは今の家庭でのフレディ→ライブ本番、というシンメトリー構成も美しい。ただ美しいだけでなく、上記のほかにも「恋人を家族に紹介する」「いつも遅刻するフレディ」といった数々のシーンやエピソードの「ビフォー/アフター」もきっちりおさえ、「あのときのあれが、こう変わったんだ」とカタルシスを感じさせる、サービス精神満載の話運び。

脚本家アンソニー・マカーテン。『博士と彼女のセオリー』(2014)や、記憶に新しいところでは『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017)も書いておられます。

出典:imdb ●次作は何やら問題作っぽい。楽しみ

本作の主人公は誰なんだ

「フレディでしょ」という人もいれば、「クイーンだ」という人もいるし、「語り手はむしろブライアン・メイじゃないの」という人もいます。さらには「フレディの実際の家族と、クイーンという家族、その両方まるごとだ」という人もいます。そのどれもが正解なのでしょう。

監督の手を離れたら、観客は自由に見たらいいし、感想だってもちろん自由。だから私も、ちょっと勇気を出して、自由に書きます。監督の考えとはズレてるかもしれないし、あなたの感想とは違うかもしれないけれど、私が見た作品は、私だけのもの。フレディだって「歌詞は聴衆のもの」みたいなこと言ってましたしね。

さて、それなりに年を重ねると、あるいは重ねていなくなって、あなたにはこんな経験があったりしませんか。

・自分のことを受け入れられず、新しい自分に生まれ変わりたいと願ったこと

・高校デビューだの大学デビューだので、過去のイケてない自分を葬り去ったこと

・葬り去ったあと、ちょっと調子にのったこと

・生まれ育った家庭に居場所がなかったこと

・出自に劣等感があったこと

・パッとしない職場で、パッとしない同僚に、悪態をつかれたこと

周りにはそれぞれ大切な「家族」がいるのに、なぜ自分には最後の最後に戻ったり頼ったりする人物や場所がないのかと悔しく思ったこと

さびしくて、誰かに甘えたくて、相手かまわず内容のない電話やらメールやらLINEしたこと

本当に自分のことを大切にしてくれるかどうかわからない知り合いに囲まれることによって、ひとりでいるつらさをまぎらわしたこと

・目がまぶしいからではなく、本当の自分を見られるのがこわくて、サングラスをかけたこと

・自分の人間性ではなく、財力とか才能とか「持ち物」に寄ってくる人に、つい自分の居場所を求めてしまったこと

・そのせいで、本当に大切な人々が自分から去ってしまったこと

・周りから祝福されない恋愛に身を投じたこと

・大切だと思っていた人が、自分のプライバシーを他人に喋ったこと

・健康面で大きな変化を迎えたこと

そして何より、

・大切な人にコールしたのに、誠実なレスポンスをしてもらえなかったこと

・大切な人からコールされたのに、誠実なレスポンスをしなかったこと 


これらはフレディのことですよね。でも似たような経験のひとつやふたつ、あなたにもありませんか。

私にだってあります。ひとつやふたつどころじゃない。私が『ボヘミアン・ラプソディ』を見ながらずっと思っていたのは、実は、次の一文しかありません。


こんなに広い映画館の、

こんなに大きなスクリーンの真ん中に映っているのは、

私だ。


出典:Wikipedia ●一緒にされて迷惑でしょうが

たしかにフレディの姿かたちはしているけれど

クイーンの歌にはあまりなじみがなく、本作内の20数曲のうち私は5曲くらいしか知りませんでした。CMなどで聞いたことはあって「あ、これクイーンなんだ」とようやく知った歌もいくつかあります。

でも私だって、お顔を拝見したことくらいはあります。画面に映っているのは、あのフレディ。姿かたちは、あの有名人物。見た目めっちゃ外国人です。というかそりゃ外国人です。

でもフレディは、

私だった。

あのときのばかばかしい行動や後ろ向きの考え方、つらかった経験、傷つけてしまった人々、やっちまったあれこれ。私と同じことをあのフレディが繰り返し、同じことがあのフレディに起こっている。映画館の大画面と大音響のなかで彼は、それらに自ら飛び込んだり巻き込まれたり逃げたり、あるいはそれらと闘い、ときには負け、ときには乗り越えていく。

めちゃくちゃ歌がうまくて、世界中にファンがいて、不幸なことにHIV感染して、それがもとでこの世を早くに去ってしまった、伝説のイギリス人スーパースターが、

まさか、

まさか、

東洋の島国に住む小さな自分だったとは。

いま目の前の大スクリーンで語られている話は、昔どこか遠い国で、私に関係のない有名人だけに起こった特別なできごとじゃない。

これは私の過去だ。

私の今だ。

『ボヘミアン・ラプソディ』の主人公は、

フレディの姿をしているけれど、

私なんだ――。

もし監督がこのように、観客にフレディに自己投影してこの作品を好きになってほしいと願ったのなら、脚本のいくつかにも合点がいきます。

ゲイとしてバンドメンバーから距離を置いた、あるいは冷たい視線をうけて傷ついた様子も、恋人をドラッグパーティ等で求め続けたシーンも、HIV感染した経緯も、感染後の痛みも苦しみも、恋人を残して世を去らなければならない無力感も、詳しくは描かれていない。それらを詳しく描いても「マジョリティ」には共感されにくいと考えたのでしょう。

物語を要約すれば、本物の家族とクイーンという家族から、フレディが一度出て、また戻るお話。唯一無二のスーパースターのストーリーを絶対化せず、誰もが入り込みやすいシンプルな「行きて戻りし物語」として相対化させたことが、本作のヒット要因のひとつなのは間違いありません。

出典:imdb ●メアリーのコールにフレディのレスポンスはナシ。光が当たるメアリー、陰に沈むフレディ、ふたりを分かつ柱の影が2本も

さあ、映画館へ

「未見の人は注意」と冒頭に書きましたが、ここまで読んでくださったあなたがもし『ボヘミアン・ラプソディ』を未見だったら…

さらに、もし上に書いたような経験があるなら…

「上に書いたような経験」って、どんな経験だ。もう一度書きます。


・自分のことを受け入れられず、新しい自分に生まれ変わりたいと願ったこと

・高校デビューだの大学デビューだので、過去のイケてない自分を葬り去ったこと

・葬り去ったあと、ちょっと調子にのったこと

・生まれ育った家庭に居場所がなかったこと

・出自に劣等感があったこと

・パッとしない職場で、パッとしない同僚に、悪態をつかれたこと

周りにはそれぞれ大切な「家族」がいるのに、なぜ自分には最後の最後に戻ったり頼ったりする人物や場所がないのかと悔しく思ったこと

さびしくて、誰かに甘えたくて、相手かまわず内容のない電話やらメールやらLINEしたこと

本当に自分のことを大切にしてくれるかどうかわからない知り合いに囲まれることによって、ひとりでいるつらさをまぎらわしたこと

・目がまぶしいからではなく、本当の自分を見られるのがこわくて、サングラスをかけたこと

・自分の人間性ではなく、財力とか才能とか「持ち物」に寄ってくる人に、つい自分の居場所を求めてしまったこと

・そのせいで、本当に大切な人々が自分から去ってしまったこと

・周りから祝福されない恋愛に身を投じたこと

・大切だと思っていた人が、自分のプライバシーを他人に喋ったこと

・健康面で大きな変化を迎えたこと 

そして何より、

・大切な人にコールしたのに、誠実なレスポンスをしてもらえなかったこと

・大切な人からコールされたのに、誠実なレスポンスをしなかったこと


あなたがもしそんな経験をお持ちなら、ぜひ映画館においでください。

そして、フレディという姿かたちごと、イケてなかった(もしかして私みたいに今もそうかもしれない)自分を、思いっきり抱きしめてやってください。

広い映画館で、大画面と、大音響、そして多くの観客のなかで、堂々と、胸を張って、他の誰でもなく、自分を。

出典:imdb ●「家族」全員映っているラストカット。アリーナ中央のテントみたいなところに「マイアミ」もいます


フレディのことは、世界中の誰もが抱きしめてやれる。

でも過去の自分からのか細いコールに、

時空を超えた今この場所から、たしかなレスポンスを返せるのは、

あなたしかいないんだ。


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