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映画「ハウルの動く城」を読む【完全解説】 ④


●宮崎版「オズの魔法使い」

 本作品の世界観の特徴の一つは、登場する主要人物たちが二つの姿を持っているという点である。ソフィーは「少女と老婆」。ハウルは「美少年(若き日の父親)と鳥人」。荒れ地の魔女は「かよわい老婆と巨漢の魔女」。マルクルは「少年と着ぐるみ」。カブ頭は「案山子と隣国の王子」。この作品世界に二面性を持ち合わせたキャラクターたちが集まっているのは、単なる偶然だろうか。また、主要人物の一人である魔女・サリマンには、もう一つの姿はないのだろうか。

映画「オズの魔法使い」

 児童文学の「オズの魔法使い」では、主人公の少女ドロシーの現実世界の人物たちが、彼女の妄想世界の中に登場する。彼女の身の回りの人物たちは、「東の魔女」「脳みそのない案山子」「臆病なライオン」「ハートのないブリキの木こり」として現れる。ドロシーは、「犬(トト)」を連れて、案山子たちとともに旅を続け、最後には「おうちが一番」、つまりは「家族が一番」という教訓を得る…。ちょっと待て。このアウトラインとキャラクター造形は、本作品と非常によく似ているではないか。本作品でも「魔女」が二人登場するし、「脳みそのない案山子(=カブ頭の案山子)」もいる。「臆病なライオン」はマルクルで、「ハートのないブリキの木こり」はハウルだろう(ハウルにはハート(心臓)がない)。それに、ソフィーは、彼らとともに、ちゃんと「犬(ヒン)」を連れて旅をする。そうなのだ。本作品は、「オズの魔法使い」のつくりを模倣しながら、前後の現実世界の描写を大幅に省略し、ほとんど妄想世界だけで構成して作り上げたのだ。二面性を持つ登場人物たちの一面は、現実世界での姿であり、もう一面は、ソフィーが作り出した妄想世界での姿なのであろう。

 「オズの魔法使い」では、ドロシーの現実世界が、冒頭で丁寧に描かれるが、本作品ではソフィーの現実世界は、思いっきり省略されて分かりにくいので、この推測の元、ソフィーの現実世界について少々補足してみよう。彼女は、現実世界で、父親が戦死し、三人姉妹とバラバラに暮らしている。父親の残した帽子屋で働きながら、おそらく老婆の介護を任されている。庭の畑では、カブを育てており、案山子が鳥たちからそれを守っている。ソフィーのベッドの傍らには、ぬいぐるみが飾られ、母親は犬を飼っている。淋しいソフィーは、庭の鳥を見ているうちに、空を飛び交う戦闘機に乗っているであろう父親とその姿を重ね、美少年(父親)が鳥に姿を変えて、自分の生活を変えるためにやって来ているのではないかと空想する。また、介護をしている老婆を見ていると、自分もこのまま年を取って、こんなふうになっていくのだろうかと考えるようになる。元々、容姿に自信がないソフィーは、こんな恐ろしい姿にはなりたくないと思い、老婆が恐ろしい魔女のように見えてきてしまう。そして、母親の飼い犬は母親のスパイなのだと思い、ぬいぐるみは、普段会えない三女が着ぐるみを被っている姿なのだと思うようになる…。その後から、いよいよ本編が始まり、鳥はハウルになり、介護している老人は荒れ地の魔女になる。ぬいぐるみは、三女のコピーであるマルクルになり、案山子は隣国の王子となるのだ。ちょっと強引な部分もある解釈かも知れないが、あくまで一つの推測として考えてもらいたい。
 
 では、魔女・サリマンのモチーフとなった現実世界の人物は誰か。もちろん、それは、ソフィーの母親であろう。先述したとおり、この母親はソフィーの実の母親ではなく、継母である。「家族の崩壊」がソフィーの心に大きな影を落としているのは間違いなく、その原因を作った母親は、ソフィーにとって、最も強力で恐ろしい存在である。母親は、ソフィーが現実逃避のために作り上げた妄想世界を崩してしまう程の力を持った、「現実」そのものなのだ。だから、ソフィーの妄想世界の中では、魔女・サリマンは圧倒的な強さを誇り(王国の摂政として君臨)、ソフィーの分身である、ハウルと荒れ地の魔女は、ともに彼女を恐れている。魔女・サリマンは、ハウルの母親だと偽ったソフィーに「随分若いお母様だったこと」と言うが、これもソフィーの現実の母親が若いことを意識したセリフだと思われる。そもそも、原作では、魔女・サリマンは男なのである。宮崎監督は、なぜそれをわざわざ女に変えたのか。その答えはここにあるのだ。
 本作品は、「オズの魔法使い」の構成を取りながら、現実世界を大幅に省略することでひねりを利かせた作品と言えるだろう。

●ソフィーの父親の幻影

  本作品に対する疑問の中でも多いのが、「ハウルはなぜ毎晩戦地に赴くのか」である。この疑問についても、少し考えてみたい。

 本作品に登場するキャラクターの二面性については、先述したが、ハウルの場合は特に複雑である。彼が複数の名前を持っていることからも分かるように、彼の中には、いろいろイメージが盛り込まれ、多面的なキャラクターとして設定されている。ハウルは、「ソフィーの分身」である面を持ちながら、「ソフィーの父親」の面も持っている。
 「ハウル=ソフィーの父親」であることが、最も明確に示されているのは、ハウルの母親に成りすましたソフィーが、王宮で「ペンドラゴン夫人」と呼ばれているところだ。この「ペンドラゴン」という名前は、父親の帽子屋の名前なのである。つまり、ハウルは父親の帽子屋を名乗っているのである。
 
 前半、兵隊たちに絡まれた時、ソフィーの緊張感は最高潮に達するが、この時、彼女は心の中で、継母ではなく、「お父さん、助けて!」と、自分にとっての最大のヒーローである父親に救いを求めたに違いない。だから、そのときに助けに来たのは、父親の生まれ変わりであるハウルだったのである。
 ハウルが国王から戦争に呼び出されるのは、父親が徴兵されたことを思い出しているから生まれてくる展開であり、彼女がそれを止めようとするのも、父親の徴兵を取り消したいという願望の表れだと思われる。ソフィーは、自らの妄想世界の中で、「父親の戦死」という現実を否定したいのだ。
 
 アルプスの花畑でのソフィーとハウルのやりとりも、「ハウル=ソフィーの父親」を意識すると、より深く読み取れるようになっている。ハウルは、「僕はソフィーたちが安心して暮らせるようにしたいんだよ。この花を摘んでさ。花屋さんをあの店でできないかな」と言う。ハウル(=ソフィーの父親)は、「父親の死」という現実を乗り越えて、「自由」に幸せな暮らしをすべきだと語りかける。この父親の幻影の言葉に対して、ソフィーは「そしたらハウルは行っちゃうの?」と悲しそうにつぶやく。ソフィーの心は、「父親の死を乗り越えなければいけない」という思いと「父親を忘れたくない」という思いの間で揺れているのだ。
 
 本編中、ハウルがソフィーの父親と完全に同化する瞬間は、ハウルが「僕は十分逃げた。ようやく守らなければならないものができた。君だ」と戦地へ向かうシーンである。ソフィーは、戦地に行った父親が命を落とすことを知っている。そこで、必死に「ハウル(=父親)」を戦地から戻すことを考える。ここからは、ソフィーの表情は厳しくなり、完全に宮崎作品特有の闘う女へと変貌を遂げていく。

●ハウルとカルシファーの契約の意味

 「ハウル=ソフィーの父親」というイメージがあれば、本作品のクライマックスは、より楽しめる。ハウルの居場所を告げる指輪は、ソフィーをハウルが幼い頃過ごした水車小屋へと導く。そこで、ソフィーが見たものは、カルシファーと契約を交わす幼いハウルの姿。空から流れ星が次々と舞い落ちる。その一つを受け止めたハウルは、代わりに心臓を取り出す。「ハウル=ソフィーの父親」「カルシファー=父親の心臓」というイメージを意識して、このシーンを見ていくと、実は、次々と舞い落ちる流れ星が空爆であり、それに当たったソフィーの父親は、心臓を奪われたことを語っているのだと分かる。

 ここは、「ハウル=ソフィーの父親」「カルシファー=父親の心臓」というイメージだけでなく、同時に「ハウル=ソフィー」「カルシファー=ソフィーの心」というイメージも重ねて見ていくと完全に読み取れる仕組みになっている。このダブルイメージによって、クライマックスは十分堪能できる。では、「ハウル=ソフィー」「カルシファー=ソフィーの心」のイメージで見ていこう。疎開した幼きソフィーの元へ「父親の戦死」の知らせが届く。まだ幼い彼女は、大きなショックを受け、流れ星(=ファンタジー)を捕まえて、その代わり心(愛)をなくしてしまう。つまり、ソフィーは、「父親の戦死」をきっかけに、現実世界では、無感情となり、妄想世界へ逃げ込んでしまうのだ。

 このダブルイメージによって、宮崎監督は、ソフィーの父親が戦死したこと、疎開先で幼い頃のソフィーがそれを知って、心を閉ざしてしまったこと、この二つのことを一気に見せる。このシーンで、ソフィーは、心をなくした自分(=ハウル)に、「未来で待ってて」と叫ぶが、これは、成長したら、心(愛)をなくした自分を救いに行くことを誓っているのだ。
クライマックスで、ソフィーは、その誓いを思い出し、心をなくした自分(=ハウル)の元へと戻り、「ごめんね。私、ぐずだから、ハウルはずっと待っててくれたのに」と伝えにいくことになる。

 このダブルイメージが示すことが見えてくると、ソフィーがハウルの城に入ってすぐに、カルシファーが言っていたセリフの意味も分かるようになる。出会った当初、カルシファーは、「おいらをここに縛り付けている呪いを解いてくれれば、すぐあんたの呪いも解いてやるよ」「ハウルとおいらの契約の秘密をあんたが見破ったら呪いは解けるんだ。そしたら、あんたの呪いも解いてやるよ」とソフィーに言っているが、要は、「ソフィーにかけられた呪い」=「ハウルとカルシファーの契約」であり、それは「父親の戦死によってソフィーが心を閉ざしてしまったこと」を指しているのである。ソフィーの呪いについて、後でもう少し触れるが、ここでしっかり押さえておいて欲しいのは、「荒れ地の魔女に出会う前から、ソフィーは呪いにかかっていた」ということである。

●ファンタジーの侵食を図るサリマン

 先ほど本編における、魔女・サリマンの役割が、ソフィーに「現実」と直面させることであると書いてきたが、ここでは詳しく、彼女の仕事ぶりを見てみよう。

 本編で魔女・サリマンが最も活躍するのは、王宮にソフィーと荒れ地の魔女を呼び出すくだりだ。魔女・サリマンは、この年寄り二人に長い階段を登らせていじめる。魔女・サリマンが、ソフィーを捨てた母親の象徴であり、荒れ地の魔女がソフィーの分身だと分かると、サリマンのいじめの意味が見えてくる。サリマン(=現実世界)が仕掛けた「階段登り競争」で、ソフィーは、「荒れ地の魔女」との闘いに勝つ。言わば、二人は、この競争を通して、現実に直面させられた訳で、そのせいで「荒れ地の魔女(=自己嫌悪)」は衰弱し、本来の姿に戻っていってしまう。王宮の使いの者たちが、二人の階段登りに対して、サリマンから手助けを禁じられていると言うのは、現実世界では人の助けを借りず、自分自身で困難を乗り越えて行かなくてはならないからであろう。荒れ地の魔女が王宮に来るのが、五十年振りだというが、これは彼女がずっと現実逃避をしていたことを示しており、ソフィーがこのまま、現実逃避を続けた場合の行く末を見せているように思われる。

 この競争の後、荒れ地の魔女は、魔女・サリマンの手によって、巨大白熱灯の光を浴びせられる。このとき、荒れ地の魔女は、人型の影に取り囲まれるが、これは「人の目(客観視)」を表していると思われる。ファンタジーは、人の思い込みによって生まれるものだが、ソフィーの空想の産物である荒れ地の魔女は、客観視によって力を失い、現実の老婆の姿に戻ってしまうわけである。この後、ハウルも魔女・サリマンからこの「人の目(客観視)」を浴びせられ、ファンタジーの力を奪われそうになるが、なんとか逃げ延びることになる。
 
 「階段登り競争」の後、魔女・サリマンは、ソフィーに語る。「王国はいかがわしい魔法使いや魔女を野放しにはできない。ハウルがここに来て、王国のために尽くすなら、悪魔と手を切る方法を教える。さもなければ、魔力を奪う」と。魔女・サリマンが「現実」の象徴であることから、実質、彼女が仕切る王国が「現実世界」を意味していること。そして、ハウルがソフィーの「ファンタジーを信じる心」であることが分かっていると、サリマンのセリフはこう言い換えることができるだろう。「現実世界はいかがわしい妄想に浸る人間を野放しにはできない。ソフィーが現実世界に戻って、帽子屋のために尽くすなら、妄想をやめる方法を教える。さもなければ、ファンタジーを信じる力を奪う」と。

 こうしてソフィーは魔女・サリマンに宣戦布告されると、ソフィーの住む街は戦火に包まれ、「魔法の扉(=ソフィーの心の扉)」からは、魔女・サリマンの手下が次々と乗り込もうとし、ハウルの城(=ソフィーの心)はゴム人間(=ソフィーの不安感)に取り囲まれるようになる。また、魔女・サリマンは、「現実」そのものを象徴しているから、ソフィーにとって、魔女・サリマンとの闘いは、「現実世界」との闘いとなる。こうしたサリマンの攻撃は、「現実世界」が、ソフィーの心を追いつめ、彼女の心の中に不安感が押し寄せてくることを示している。本作品の世界では、戦争を起こしているのも、サリマンの意志一つであることになっている。帽子屋に爆弾が投下されるのは、簡単に言えば、これは、「魔女・サリマン=母親」が、再婚によってソフィーに押しつけた帽子屋を捨てたことを意味しており、それをハウル(=ソフィーの中の父親の幻影)がその爆弾を必死に食い止めることを見せているのである。

 魔女・サリマンは、母親をソフィーに会いに行かせるが、これもソフィーにとって、かなりきつい戦法と言えるだろう。なぜなら、ソフィーは、母親が家族をバラバラにしたことを恨んでいたからで、魔女・サリマンは、そこにつけこんで、母親と「仲直りできてよかった」と勘違いさせる。すると、実際には、「現実」を受け入れていないにも関わらず、母親と和解したと騙されることで、ソフィーのストレスが緩和される。しかし、後でソフィーは母親が改心していない「現実」を突きつけられ、自己嫌悪に陥ることになる。それこそが、魔女・サリマンの狙いなのである。ソフィーは、妄想世界の中でこんなことまで考えているわけで、このくだりで、荒れ地の魔女(ソフィーの自己嫌悪感)が力を戻し、カルシファーが弱ってくるのは、単に「毒虫」のせいだけではないのだ。ソフィーの不安感が大きくなると、荒れ地の魔女(=自己嫌悪)は、サリマンの煙草をくゆらせ(現実世界の力を借りて)、ここぞとばかりに力を取り戻してくる。

 この章の最後に、「なぜ魔女・サリマンはラストでいきなり戦争をやめると言い出したか」についても触れておこう。この疑問の答えも、魔女・サリマンが「現実世界」の象徴であることが分かっていれば、おのずと見えてくる。魔女・サリマンの役目は、ソフィーに「現実」を突きつけることで、できれば、彼女が受け入れたくない強烈な「現実」を突きつけてやりたい。それは何かと言えば、「父親の戦死」である。なぜなら、先述したように、それは「ソフィーにかけられた呪い」=「ハウルとカルシファーの契約」であり、それらは「父親の戦死によってソフィーが心を閉ざしてしまったこと」の暗喩であるからだ。サリマンが、戦争を続けさせていたのは、ソフィーに「父親の戦死」のことを思い出させるためだったのだ。
 しかし、ラストでは、ソフィーが「父親の戦死」という現実を受け入れてしまったことから、ソフィーにかけられた呪いは解け、ハウルたちの契約も解けてしまった。そうなってしまうと、魔女・サリマンの役目はなくなり、戦争を続けさせる意味もなくなってくる。魔女・サリマンが、あっさり戦争を終結させてしまったのは、こんな理由からなのである。


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