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なぜアーティストと仕事をするのか?


私が運営しているオピニオンメディア「milieu」では、これまで4回、外部の方が記事を執筆しているのですが、そのうち3人はライターではなく、同年代に生きるアーティストです。



milieuの数字の話をすると、エモーショナルなものや、SNSやスタートアップを扱う記事が平均して3、4万人くらいに読んでいただける。一方でアートの記事は5000〜1万人くらいが平均でしょうか。ですから、数字だけを追いかけているのであれば、「不必要」なジャンルかもしれません。

ただ、私はmilieuにおいて、アーティストに記事を書いてもらい、それを一緒に作り上げていく過程は、必要不可欠な営みだと思っています。

というのも、アーティストほど自らの生き様や得意不得意、様々な社会的背景、対人における感情などについて考え、悩み、生み出し、問いかけている職業を私は知りません。


会社員として、もしくはフリーランスとして社会の大きな仕組みの中で働いていると、ある種の「あぁ、ここで悩むのは無駄だ、もう感情スイッチを消して動こう」「長いものに巻かれてしまおう」という瞬間が多くあります。


「なぜ自分が起用されたのか?」
「なぜ相手はこう発言したのか?」
「なぜ道具はこれを使うのか?」


そんな「なぜ」を仕事の現場で毎回毎回繰り返していたら、完全にめんどくさい人になります。事業を立ち上げるときは必要なことかもしれませんが、走っている事業を回す側というのは必要以上に「なぜ」を持ってしまうと逆に苦しくなってしまい、精神を病んでしまう。だから「感情スイッチを消す」と少し楽になるなぁと思うのです。


しかしアーティストの場合、この「なぜ」を放棄することは出来ません。


あなたが美術館やギャラリーでアート作品を見るとき、作品の横にはきっと作家の名前と背景が添えられているかと思いますが、作品がどんな見た目、形、色、素材で構成されているかと同時に、「なぜその人がそれを作ったのか」は、とてもとても重要です。

そしてさらにアーティストは、鑑賞者から、批評家から、「なぜ?」「どうしてあなたが?」と問い詰められ続けていきます。その「なぜ?」「どうしてあなたが?」を突き進み、それを紐解いていくことが、アートの醍醐味でもあるからです。(日本と欧米とでまた文化が異なるかとは思いますが……そのあたりは長くなるので割愛します)


その「なぜわたしが?」の内訳は本当に様々です。


政治的なものから、愛情、憎しみ、人種、男女問題……そうした様々な感情や意図から生まれる作品と、アーティストの生き様。またそうした「感情的・意図的に作る」という行為から一切離れて「構造と実験の極み」に達する人もいます。


アートの世界でオリジナリティが重要なのは言うまでもありませんが、オリジナリティを追求する旅というのは、孤独なものです。

「なぜ自分が起用されたのか?」
「なぜ相手はこう発言したのか?」
「なぜ道具はこれを使うのか?」

こうした、普通の人であれば「それよりも目の前の仕事を!」と蓋をしてしまいそうなささやかな「なぜ」を都度確認し、都度考え、作品に落とし込んでいく。



考えて考えて考えて、数多の本を読んだり、文化に触れたり、自分自身の生い立ちに立ち返ったり、そうした膨大なエネルギーの中生まれた「塊」のようなものの、氷山の一角がアート作品なんだ、と私は考えています。

目に見えるアート作品というのは、一種、オリジナリティの看板のようなもので、その看板の下をくぐればそのアーティストの思考、バックグラウンド、政治、感情、知識、様々なものが潜んでいる。



一方で、「なぜ私は生まれて、生きているのか」という問いは、アーティストではない私達も、誰もが根底に抱えている問いだと思います。

ただ、その問いに対して深掘りするよりも先に、私達にはやるべきことがある。そんな横で、アーティストが孤独に戦いながらも、個性を貫いて生きている。その様子を見ていると、どこかで


「あぁ、あなたが私の気持ちを言語化してくれた!」
「あなたの作品が私を救ってくれた!」
「あなたの生き様が私に多くの知恵をくれた!」

といった気持ちになったりもするものです。

私がmilieuでアーティストの原稿を掲載させてもらうとき、編集中に何度も、そのアーティスト自身のアイデンティティついてディスカッションしていたりします。読者の方にはアウトプットしか出せず申し訳ないのですが、編集者的には、そのプロセスこそが垂涎モノの時間なんです。


「アーティストと深く対話する」というプロセスは、私の編集者として、コンサルタントとして、というか人としての「時代と人間を読み解く力」を育ててくれてるんじゃないかな、と思っています。

実際、アーティストとディスカッションした内容は、角度を変えて、経営者に向けたコンサルタントでも活かせることが多い。領域は違えど、同じ時代を生きる人、そこから生み出されるもの(作品 or 商品)という点では必ずどこかでリンクしているからです。



もちろん、映画や小説、音楽を通しても「どう生きるか」の結晶を目撃することは可能です。

ただ私がアートに惹かれるのは、マーケットが小さいこと。1対1で存在しうるマーケットだからです。

一人のクレイジーなアーティストが作品を生み出し、それを一人のクレイジーな顧客が「これは素晴らしい!」と認めれば成立する、という、信じられない世界です。

それはアート産業が広がりにくい最大の負の原因でもありますが、ある種、「純粋に個性を追求できる」といった意味ではとてつもなく自由で、実験が出来る世界だと思っています。


そしてクレイジーで偏った魅力を伝えられるメディアとして、milieuは存在していたいなと思っています。時代の第一発見者になり、言語化すること。


問題を投げかける。ストレスを形にする。喜びを高らかに唄う。


そしたら次は、それを見たマスメディアや、もっと多くの商業的な営みが、時代の流れに気づいて動き始めるかもしれません。その第一投を投げられるメディアでいたい、というのが私の目指すところです。そのためには、アーティストたちとの協業は必要不可欠です。



また、アーティストと同じく、経営者も孤独な職業です。まだ見ぬ世界をつかみ、職場の愚痴をこぼせる仲間はおらず、時に冷酷な判断をして、自社の方向性を決断し続ける。


豊臣秀吉が千利休の才能を求めていた……といった話も近しいように、「山の頂上に立つ人」が必要とするのは、独自の道を進む、アーティストのような友、もしくはビジネスパートナーなのかもしれません。


日本では長く、欧米のようにアートマーケットが盛り上がらない、と言われ続けていました。

それは日本人の「右に倣え精神」の象徴で、消費者が「自分の審美眼」よりも「ブランドを所有する安心感」で消費を決定することが多いからだと。


(あとは単純に家が狭いとか、ホームパーティーの習慣がないとか、本来あった画壇のマーケットと現代アートのマーケットが接続せずに乖離してしまったりとか、海外諸国のように美術品を保有することで税金が排除されるような仕組みがないからコレクターが得しないとか、色々ありますが……)

ただ、スタートアップビジネスが盛り上がり、起業家の数が爆発的に増えている今。

先日の家入さんのこのツイートに、1000人近くものスタートアップ志望者、実践者である若者たちの自己紹介が連なっていて本当に驚きました。10年前ではありえないことです。


孤独な戦いに武者震いする一部の若者たちは、いつか孤独な戦いを極めてきたアーティストたちと分かり合う日が来るのかもしれません。

そして社訓を壁に飾るように、経営者のアイデンティティーとしてアートを掲げる会社は増えていくように思います。



ここからは有料ゾーン。私が経営者やマーケターの方に向けてコンサルタントするときに意識していることを書いていきます。


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。