汚部屋に住んでいた


前回のnoteで、わたくしの暮らしが丁寧の極みである、みたいな文章を書いてしまったので、誤解を与えすぎたかもしれない。友人からは「着物警察」ならぬ「暮らし警察」と呼ばれるほどに、暮らし丁寧のレッテルを自ら貼ってしまった。

ここでレッテルの剥奪をしたい。させてください。今でこそ地面が見える部屋に住んでいるものの、私はもうずっと、汚部屋に住んでいた。

汚部屋。特に上京して一人暮らしをした23歳から26歳の頃は、まさに汚部屋と呼ぶにふさわしい、おぞましい汚部屋を棲家としていたのだ。

そもそも論として、テキパキと身体を動かすこと、出したものを片付けることを苦手というか「全て1秒で忘れる」性格なので、汚部屋の才能があったのだと思う。しかも「細菌とは共同生活したほうが強くなれる」という説を盲信していたので、汚部屋への肯定感があった。

実家に住む綺麗好きの祖母がしっかりしつけてくれたにも関わらず、23歳からの数年間、東京の豪徳寺の狭いアパートは荒れ果てていた。ゴミ箱とゴミ箱ではない場所の境界線が溶けた空間にひとり暮らす女だった。でも可愛いインテリアには憧れはあったので、アトレ恵比寿でせっせと小物を買ってきては飾ったりもしていたが、それも相まって部屋はモノに溢れた。この写真はTokyo graffityが取材に来てくれるというので気が狂うほどに片付け装飾した1枚。もちろん、布団の中に大量のモノが埋まっている。

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取材時にあわてて買った観葉植物は即枯れて、ガビガビになったことも気づかず部屋に放置されていた。とにかく荒れていた。通常時は床から服を拾って着ていた。洗濯物を畳む? 皿を洗う? それであれば、1秒でも長く寝ていたかった。洗濯物は畳まなくてもそのまま着れるし、皿は使わなければ洗わなくて良いじゃない。


睡眠。何よりも睡眠。当時はとにかく寝る時間が欲しかったのだ。当時、朝はメイクが間に合わずマスクをして電車に飛び乗り、井の頭線渋谷駅のトイレで化粧を済ませた。ファンデを叩き、チークとアイブロウとアイラインを乗せるまでで60秒。60秒でどこまで完成させられるか、というスポーツだ(汗だく)。

昼は営業先に向かう途中、乗り換え待ちをする6分間で膝の上にノートパソコンを広げ、テザリングしながらファイルの送受信そしてカタカタカタ、パチーン!とメールを数本打ち返していた。メールのほとんどは、辞書登録した慣用句の組み合わせだ。とにかく時短、時短、時短。


夜は終電ギリギリまでオフィスで仕事し、退社するやいなや走りやすいヒールで恵比寿を全力疾走。飲み会帰りの恵比寿ピーポーたちにもまれながら死んだ魚のような顔をして終電に飛び乗り、最寄り駅に着いてからはデニーズで残った仕事を消化していた。デニーズで食事をすると、洗い物は増えないし、コーヒーは無限に飲めるし、食べ終わって眠くなっても眠れない。(ソファ席でうとうと眠ると店員さんから起こされる)良いライフハックだった。

27時、ボロボロになって部屋に戻る。電池が切れたように即爆睡。ピアスもメイクもコンタクトも腕時計もベルトもブラジャーも何もかも付けっぱなした状態で朝になり、サイレンのようなアラームを止めた手でそのままコンタクトを剥がし、メイクを落とし、そのへんに落ちてる服を羽織って、マスクをしてから電車に飛び乗る。また同じ速度で1日が回転していく。会社につけば怒涛の慣用句の組み合わせでメールを返信する。


22歳から26歳は、だいたい毎日全部こんな感じだった。ご自愛どころか、ご自虐しまくりだ。


そう、自虐。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。