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Kanye West, Ty Dolla $ign『VULTURES 1』についてのノート

Kanye WestとTy Dolla $ignのニューアルバム『VULTURES 1』を聴いて、いろいろ考えたこと。

このアルバムを自分のなかでどう消化していいのかわからなくて、いくつかレビューを読んだりした。そのなかで一番しっくり来たのはtheneedledropというYouTuberが言っていた“unreviewable”という言葉だった。

僕の言いたい「評価不可能」というのは、この動画とはすこしニュアンスが違う。けれど、カニエの差別的な言動、そしてこの作品のリリックについての話であることには変わりない。

僕はここ数年、カニエについて考えてきたことがある。

彼のひどい言動について、そのひとつひとつを批判したり、問題点を指摘したりすることはできるし、むしろそうするべきだと思う。けれど、彼自身のことについて、僕はどうしても非難できない。もちろん擁護もできるものでもないけれど、でも彼のことを真っ向から否定はできないのだ。それは、彼の双極性障害のことも理由だし、僕自身が(双極性障害ではないものの)同じようにメンタルヘルスの問題に苦しんでいる人間だからというのもある。結局は僕の弱さに原因があるのだけど、やっぱり今のカニエを否定も肯定もできない。
だから、そういう状態の彼が作り出した『Vultures 1』という作品についても、僕は良いとも悪いとも言えない。差別的という意味ではこの作品はもちろん最悪だ。しかし、僕にとっては「評価に値しない」作品じゃなくて「評価ができない」作品なのだ。
だからといって、このアルバムについて語れないわけではないし、目を背けるのも間違っているはずだ。そういう考えで、すこしだけ『Vultures 1』についての話をしようと思う。

彼が21世紀のポップミュージックを作りあげた天才的なアーティストでプロデューサーであることに異論を唱える人はいないと思う。そんなカニエの新作だから決して出来栄えの悪い作品ではなかった。サウンド的に面白い曲がいくつもあったことも事実だ。しかし、これまでカニエが成し遂げてきたことを考えれば、特別革新性に富んでいるアルバムというわけではない。
だけど、タイ・ダラー・サイン というシンガーのファンであり、R&Bとソウルミュージックにとり憑かれている僕にとっては魅力的な作品だったことも事実である。
タイ・ダラー・サインはもともと客演することに長けているアーティストだからか『Vultures 1』のなかでも、彼の歌声が前面に出てくることは少ない。このアルバムを聴いてカニエの作品だと思う人はいても、タイ・ダラー・サインの作品だと思う人はすくないだろう。だけれど、彼のもつメロウネスがこの作品に良い影響をもたらしていることは間違いない。そもそもカニエはソウルフルなところが、魅力的なアーティストなのだ。タイ・ダラー・サインはそこをうまく引き出しているし、それが意外にもビートやアルバム全体の流れと対立していないのが面白いところだ。そういう意味で、ものすごくバランスのとれた作品なのではないのかなと思った。



カニエの痛々しい姿を見るたびに、胸が締め付けられる。今の彼の姿に慣れてしまって、彼のことを頭のおかしい奴だと、醜悪なメッセージを発信する差別主義者だと思えるようになったほうが楽なのかもしれない。

でも、彼はヒーローだったのだ。
今も、彼の音楽は僕を救ってくれる存在なのだ。

もし今のカニエを救える人がドンダしかいないのなら、それはとても悲しいことだと思う。


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