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公務員と災害 vol.3

初めての「災害時の公務員」

「首都直下地震が来てしまった」と思った後のことはあまり鮮明に覚えているわけではないけれど、区役所のシステムのお世話に忙殺され、震源が東北であることを知って驚愕し、計画停電の報道に慌て、異動内示を出す・出さないで翻弄され、多くの帰宅困難者対応にあたり、一息ついたのは2日後くらいだったと思います。

当時は実家暮らしで、母親も家にいましたがほぼ連絡せず、家がどうなったかもあまり気にしていませんでした。目の前の異常事態についていくのがやっとだったハズですが、「自分の力でできることはなんとかしなきゃ」という気持ちで(なんとなくの感覚ですが)ハイになっていたように思います。

2011年、26歳。僕は生まれて初めて「災害が起きると公務員はとにかく災害対応に忙殺される」という状況を経験しました。
もちろん、自分の足元がひび割れた訳でも、自宅が倒壊した訳でもありませんが、「家に帰るという選択肢もなくとにかく緊急対応にあたるのが当然」という感覚を初めて感じたのが、3.11という出来事でした。
※余談:杉並区役所は3棟が連結している形ですが、棟と棟の間に隙間ができたのを目の当たりにしてゾッとしました。

「被災地の公務員」を見て

震災当日から数日間、津波被害の全容や福島第一原発の事故が徐々に明らかになっていく中で、東北を中心とした主たる被災地は、杉並と比較にならないほど凄惨な状況であることを日々思い知らされました。

計画停電の報道などに右往左往することはありながらも、徐々に落ち着きを取り戻していく一方、「東北に行きたい」という想いが大きくなっていき、もはや日付も覚えていませんが、ボランティアとして宮城県は南三陸町に入ることになりました。

南三陸町の被災状況は町のHPを参照していただくとして、少し高台にあるボランティアセンターまでの道のりでは息を呑む光景の連続で、
道路一本挟んで、(外見上は)無傷の家が続く地域と、家の土台を残して何もない地域が分かれている。そんな状況にはもう言葉もありませんでした。

たどり着いたボラセンでは、ボランティアのリーダーたちがキビキビと指示出しを行い、即座にチームが組まれ、ボランティアたちが各地へ移動していきましたが、その中に数名ですが町の職員と思われる方々の姿がありました。

ボランティアに行く頃には、杉並区における「被災」はある程度収束していた感覚でしたが、そこはまさに被災の最中で。ということはこの職員達はあの日からずっと働き続けると同時に被災者でもあり続けているのだ、と感じたのです。
この感覚が、言葉足らずかもしれませんが、今も自分が南相馬市で働いている理由の土台になっているような気がしています。

(まだ)続く…

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