「もっと生かされなさい」
2023年のテーマ、その②の話
元旦は日曜日だったから教会へ行っていた。
今年の年末年始は、私にとってこれまでにないくらい穏やかで幸せな年末年始だった。
にもかかわらず、
わけもなく心が重くなって、身動きの取れなくなるようなことが何度かあった。
元旦の礼拝が終わって、これから洗礼式があるという時に、
教会の敷地をふらふらと歩きながら祈った。
神様、生きていきたくないです
積極的に死にたいというのではないけど、
生きていくことがしんどいです
なんでこんなにしんどいのかわからないです
でも
わたしたちが「自分の力で」
生きているのではなく
あなたによって「生かされている」
のだとしたら
わたしはどう、あなたに「生かされたら」
いいですか。
この日は快晴で、青い空に、枯れた草までキラキラ輝いていた。こういう時天の御国ってこんな所かしらんと思う。
しばらく景色を眺めていたが、洗礼式はやっぱり見とかないと後悔するよなーと思って行った。
この日洗礼を受けたのは、祖母のかつての友人で、私も知っていた人だった。
私の知らないところで少しずつ種は蒔かれて、この日実を結んだんだと思うと嬉しかった。
私はどんな人の洗礼式でも大体泣いてしまうのだが、やっぱり泣いた。
水にザップーンと沈み、そして上がってくる瞬間に、心の深い所から喜びが湧き上がってきて涙が出る。
数年前、同じ教会の方の赤ちゃんが産まれたというニュースを聞いた時にも、同じ喜びを感じた。
洗礼も、出産も、
「新しく生まれる」
ことだからかな。
それはやっぱり、大きな喜びに満ちたことなんだと思う。
話が逸れたが、
祖母の友人が水から上がってくるのを見て涙が出た瞬間に、心に響いた声があった。
「もっと生かされなさい」
さっき祈った答えだった。
しかし、わかるようなわからないような。
洗礼を受けた私は既に、神様によって新しく生まれ、生かされているはずだった。
それを、もっと生かされなさい、とは。
一年間かけて考えなさいってことかなあ、と、この短い言葉を手帳に書き留め、反芻しながらしばらく過ごした。
頭の中で結びついた聖書の箇所がふたつくらいあった。
ヨハネ15章
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
…あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」5、7節 新共同訳
詩編1編
「いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」1〜3節
一度きりじゃなく、
一日一回でもなく、
「いつも」、
「昼も夜も」、
神様のことを心に留めていること
枝に繋がっていること
流れのほとりにとどまること。
日常の中で、「自分は今、神様から目を逸らしているな」「神様がいないかのように生きてるな」と思う瞬間が少なからずある。
大体その後は、敗北感とだるさで一日を終えることになる。
少しずつでも、
「枝に繋がっている」瞬間をふやしていけるように。
時間切れなのでここまで。
2023年心に留めたいこと、その②の話でした。
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