書評(大衆の反逆)という名の挫折

オルテガの「大衆の反逆」を読んだ。しかし、社会科学の古典たる本書はとにかく難しい。抽象度の高い内容、冗長な言い回しが読み手の理解を妨げる。可能な限り内容を記載してみたいが、「第二部世界を支配しているのは誰か」の部分は理解が乏しいので、記載はしない。

ヨーロッパを支配した「大衆人」

現代は「貴族」に代わり、「大衆人」が権力を握るようになった。「大衆人」とは、自らを省みることができず、歴史を学ばず、優れた他人を認めず、自身の万能性を疑わない、無責任な人々のことである。オルテガは彼らのことを「甘やかされた子供」表現している。
彼らは、19世紀の自由主義的デモクラシーと科学技術に誕生したとされる。一方それまで権力の座にあった「貴族」というのは、伝統や家柄によって継承され、その地位を自身のものとは思わず、いわば他人から借りたのものと思う、その結果、先人が築き上げてきたものを守る存在であった。

一番の大衆人は専門家

オルテガは、「大衆人」はあらゆる階層に存在していると考えている。現代の時代の精神を形作っているのは専門家、医者や教師などの階層の者であって、その中で最も純粋な専門家は科学者であり、彼らこそ最も典型的な大衆人であると表現している。科学者は、近代の実験主義など機械化された科学の中で極めて範囲の狭い中の専門的な知識のみ持っているという存在なのである。つまり、博識と無知が共存する存在という新たな人が誕生したのである。
専門家は、自らの極めて狭い専門分野に引きこもり、自ら専門外については、無知の態度をとる。しかし、他の分野の専門家の観点を受け入れようとしえない。その一方、他の分野を支配しようとするため、「他人の意見に耳を貸さずに」奇妙な判断や行動をする。ここに現代ヨーロッパの病理が顕著に表されていると断じる。

現代の日本はどうであるか。

不完全な読解ではあるが、オルテガの分析は今の日本にとって極めて耳の痛いものである。
オルテガは物事を動かす時、歴史や経緯を重んじかつ多様な意見に基づいて進めることこそ重要なものであると考えている。これこそ貴族の行動と捉えている。例えば、ある規制を廃止や公営事業を民営化するとしよう。規制や公営の事業というのは長い間、一定の理由があり作られたものであって、変更を加える際には複雑な経緯を理解し、利害関係者間を説得し、妥協を重ね、調整を図らねばならないということである。これは、長く地味で精神的にも肉体的にも強靭さが求められる作業であり、大衆人にとっては最も忌避したいものではないだろうか。
平成日本においては、決めること、スピードが最優先され、複雑な議論は退けられ、わかりやすいこと簡明なことが重要視されてきた。その上でわかりやすい既得権益の打破といったスローガンの下、利害関係者をだまらせ、規制の廃止や民営化が進める。そうした戦略をとることができる者が大衆から支持を受ける。つまり、平成日本とは「大衆化」の歴史といってもよいのではないだろうか。

最後に私見だが、既得権益と公務員や農業、郵便局、電力会社をたたいて日本が良くなったのだろうか、規制緩和や民営化で自分たちの生活は良くなっていったのだろうか、安心を得たのだろうか。
昔の日本人が問題を起こしたから、今の自分たちには関係ないと思っていないだろうか。
今も昔も未来も日本に生まれたからには、日本という歴史を背負う立場となり、現代の日本人1億2千万人と共に生きなければならず、更に一人ひとりにはそれぞれの歴史が存在する。
それらの想いを背負い、また、大衆人が多数を占める世の中においてもそれでも!と思える人間こそが、オルテガのいう真の貴族ではないかと感じた。


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