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中公新書 言語の本質(今井むつみ 秋田喜美著)
の中に 記号接地問題があった。身体的体験が無ければ、その記号はどこまでも記号でしかなく、身体と分離されたままだという問題。
なんだか見覚えがあるな、と思いつつ私はある先生のことを思い出していた。

幼い頃から算数が苦手だった私は、あんぱんを使って分数を教えてくれる先生に出会った。生徒はもう1人いた(たしかサエキくんと言った)
はじめに蛸のビデオを見せて、あれは体が1つなのに足は8本だね、という。この状態を何ていうかな?と問うてくる。

ぽかんとしている我々。構わず、こっちにおいで、と言う。

ヤマザキのあんぱんを手で2つに分けて、
「ほら、1個が半分になった。これが2分の1だよ」
続いて「これが4分の1、これが8分の1…」と説明してくれる。

進めるにつれて、どんどん餡子がはみでて細切れになってゆくそれに堪らなくなった我々は
「先生!もういいよ!!」
と叫んだ途端、彼はニヤリ、と笑って食べようかと言った。3の分数でも同じことをやってくれたので、終わるころにはサイコな細切れのあんぱんの記憶と腹一杯の体験が残った。おかげであの分数体験はまことに忘れられないものになった。
2日目はイカだった。活きのいいイカ。
詳細は省略する。

 他にも、物差しなしでロープを使って小屋を建てたり、色の概念や心に与える影響を教えてくれたり。考えの覚束なかった子でも皆と野山を駆け回るうちに次第に喋るようになった。とにかく葉っぱでも、きのこでも掴んで観察をし、自分の中に一旦取り込んで、詩を作る等、自分の言葉でアウトプットする授業をずっとしていたように思う。記号には実地が要る、とはこのことだ。

本書には
* 人間が身体的な制約に努めて言葉を発し、コントロールしている限りは身体的体験のないAIも道具でしかない
* 言語問わず遺伝子レベルで感覚的な音の連なりが何を表すか高確率で分かる。但し自分の体験した範囲内で
* 一つの記号(オノマトペ等)に対して感覚を理解した上で推論し、言葉を発展させる
(要約)とあった。

さらに結末には
言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。
とある。

例えば、種を植えてそれが何かも分からないが、予測しつつ、種別対処を調べる。薬が合わなければ変え、葉っぱが多かったら剪定するやり方に似ている。これは人にしかできない。不確定な中から誤っても答を探し続けるやり方は動物にはできないらしい。自身の体験を思い出すうちに、言語習得に思いあたる節があって、改めて面白く読ませてもらった。

トライアンドエラー。
どうりで紙の上で叱られながら、殴るようにこれが8分の1だと断定されても判らなかったわけだ。ただ分からず悲しいだけで、足掛かりが全くないから。家に帰ってからもせんべいを割ったりして、わざわざ母に見せていた。間違うとせんべいは母の口に入った。

私は凡人だからして、真新しいものは特にないが、これからも何か気付いたら記していく。単純な確認作業に興味が無ければスルーすればいい。

疑問に応える場所があれば、誰かが本を読むきっかけになるかもしれない。

というわけで、ご自身の体験になんらかの思い当たる節があっても、なくても、この本をおすすめ致します。言語習得の過程がかなーり詳しく書いてあります。念を押しておきますが、ご自身で読んでみて、内容を確かめてくださいね。

先生は出家して今は東南アジアあたりにいると風の便りで聞きました。食えないというか、キョーレツな先生だったな。

お付き合い頂き、ありがとうございました。