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長編小説「東海道歩き旅」

•        登場人物
•        磯原 翔太
•        桜田 由香里
•        原 酉三郎
•        朝6時2人が東京駅に集まった。磯原翔太と桜田由香里だ。まず地下鉄で日本橋へと向かう。早朝だったが混んでいる。日本橋から東海道を歩き始めた2人だった。2人の前には丸広や、八重洲地下街などAP八重洲などが並ぶ、高い建物を見て由香里は、目が回りそうになった。そして東京駅を見て、歌舞伎発祥の日も見た。10分くらい歩くと京橋駅についた。この2人は、歩くのがすごく得意な人である。また知識も豊富である。5分ほどで東京外環自動車道を超えて、銀座一丁目駅についた。銀座三越を通りかかると「明治に建てられた」ということを由香里が言いそれを2人で話し合った。銀座駅を通過し、しばらく歩いて新橋駅のSLも観た。歩いている最中に、汐留公園や増上寺なども見た。東京タワーがよく見えた。大門、三田、泉岳寺と通過した後、新駅の高輪ゲートウェイ駅に行って木で作ったような駅舎を見た。高輪ゲートウェイから10分で最初の宿場町、品川についた。7KMで1時間半でついた。京急線の線路の近くを歩き、品川ふ頭などを見た。北品川、新馬場、青物横丁、鮫洲、立会川とハイペースで抜かすと、大森海岸の辺から大森の間付近を歩いた。また京急と合流して、平和島、大森町、梅屋敷と通過し、蒲田駅に行った。蒲田で朝食を食べた。蒲田から25分程度で雑色を通過し六郷土手について碑を見た。多摩川を渡るといよいよ神奈川県だ。川崎からは路線を外れ本格的に東海道へと入っていく。すでに20キロ歩いている2人だった。そして9時半過ぎに八丁畷を通過し生麦へと着いた。生麦事件の様子が分かる碑があり、一里塚を発見した。20分歩いていると、神奈川宿についた。ここから保土ヶ谷まで4キロであるが、2人は疲れた気配を一向に示さない。いったい何者なのかはこれから分かる。神奈川を出ると横浜の市街地とは離れる、理由は「貿易のときに道の妨げにならないようにするためだった。」と翔太が答えた。楽しく話しながら歩いていると、天王寺を通過して、保土ヶ谷についた。
•        保土ヶ谷駅に11時頃つくと藤沢まで本気で歩き始める。藤沢まで16キロあるのだ。すでに25キロ以上歩いている。途中の戸塚で昼食であるうどんを食べた。すると藤沢まで8キロあるのだが2人で1時間半で歩いたのである。13時に藤沢につき休憩を取った。由香里が「少し疲れたね」といった。「今日はどこまで行く?」と聞くと翔太が「行けるところまで行こう」と言ったので、そうすることとなった。茅ヶ崎まで1時間半、平塚まで40分で着いた。由香里が「案外行けるね」と言った。すぐに50分で大磯についた。なんと由香里は、歩くのがとても好きであるのだった。大磯からは太平洋をよく眺めることができた。大磯の旧吉田茂邸を見て、砂浜を歩いて二宮まで1時間で歩いた。時刻は16時半過ぎだった。2人はある夢を持っていた。それは東海道を史上初につくことを夢見ていた。しばらく海沿いを歩いていると小田原市の境についた。境を超えて、国府津、鴨宮と着いて、小田原まで30分で着いた。小田原で夕食の寿司を食べて、小田原城を見た。「ここは、北条氏が豊臣秀吉に1590年に落とされた城で、日本100名城に指定されている」ところだと、あっけなく由香里は説明した。小田原城を見た後、早川方面に進んだ。そして、箱根板橋、早川、風祭を通過した。ここで翔太があることに気が付く。「早川駅の由来は早川という川が流れているからだな」と推測したのである。調べてみるとそうらしい。小田原から1時間、箱根湯本についた。箱根湯本で温泉につかって泊まった。
•        朝5時今日も頑張って歩くと思っていたので晴れになった。箱根からは峠を越えていく。1時間半ほどで箱根関所跡につき、3時間半ほど歩いていると、峠を越え、三島スカイウォークが見えた。そこで朝食を食べた。三島スカイウォークからは、下り坂だったからか、1時間20分程度で三島駅についた。1時間ほどで沼津を過ぎ、30分で片浜海岸の景色を見ながら歩いた。20分ほどで、原についた。ここで思いがけない出会いがあった。原酉三郎という人に出会った。彼も東海道を歩いていたので、一緒に歩くことになった。少し早歩きで歩いて、吉原に1時間10分で着いた。気が付くともう15時だったので3人は焦った。45分で新富士、20分で富士川を渡り始めた。45分で新蒲原についた。新蒲原で蒲原宿の本陣跡を見つつ、先を急ぐ。30分で蒲原駅、20分で広重資料館についた。「歌川広重が東海道を歩いたときに書いた作品が展示してあると言われている」と由香里が説明する由比まで20分で着いた。ここらへんで海に太陽が沈み始める。由比からは東海道を歩くのではなく、国道1号を歩く。30分ほどで興津についた。時刻は18時半、完全に日が沈んだ。3人は興津宿を後に、先を急ぐとすぐに、清水港につく。清水港でたくさんの船を見た3人は、話しながら歩いているとすぐ清水駅についた。
•        清水からは栄えた街並みを歩いて静岡へと向かう。途中三保の松原などを見ることもでき、3人は、浮かれていた。日本平などを見ながら歩いていると静岡駅についた。静岡駅からは国道1号で安倍川を渡り用宗についた。22時についたのであたりはすっかり真っ暗になっている。ここで由香里が意外な行動に出る。なんと用宗で泊まらず、焼津まで行くと言い始めたのだ。焼津まで峠なのでライトを持って峠に入った。暗かったが大崩海岸などを確かに目にすることができた。1時間で焼津に到着したのである。焼津についたのは23時過ぎであった。眠気とも戦う中ホテルを探していると、古墳時代に大活躍したとされるヤマトタケルノミコトを祀った、焼津神社に来た。地図を確認すると市街地からだいぶ離れていた。「戻ることもないんじゃない」とおとなしい翔太が珍しく発言した。酉三郎は疲れ切って顔が死んでいる。由香里が納得すると取りあえずホテルを探しながら進むことにした。小さい旅館を発見したが、もう閉まっていた。酉三郎が残念がった。由香里が地図を確認すると、なんと西焼津に近かったのだ。時刻は0時過ぎ。ホテルもない状態で寝るわけにはいかない。由香里は西に歩きだした。30分で藤枝のホテルについた。ホテルで翔太と由香里が同じ部屋で寝た。原は信用できないので別室で寝た。
•        朝5時今日は藤枝のホテルで目覚めた。昨日ホテルが見つからず、藤枝のホテルまで歩いたことをよく覚えている。3人は歩き出した。疲れと戦いながら藤枝の町並みを歩いた。1時間ほど歩いて六合を通過し、島田付近に来た。いよいよ大井川を超える。江戸時代には橋がかけられず「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」という詩が残されたのである。15分ほどで渡り終わり金谷の街に来た。金谷で石畳などを見た。ここからも峠越えがある。菊川の上流を渡り上り路を歩くと芭蕉の句を詠んだ碑や、二の曲がりなどを超え、パン屋でパンを食べた。40分で掛川についた。「掛川宿も江戸時代発達した宿場町」だったと由香里が説明する。ここから天竜浜名湖鉄道沿い意を歩き、掛川市役所前、西掛川駅まで30分で着いた。ここで由香里が振り返る。「この旅は、史上初の速さで着くという夢を思い続けてきたのだ」と思いここからもっとハイペースで進もうと翔太は言う。そして20分で原川を渡り、暫く国道1号を歩き続ける。ここで酉三郎が競歩大会をしようと言ったのだ。
•        3人は酉三郎の提案で、競歩大会をすることとなった。スタートは11時の袋井の町並みの中の日蓮宗妙日寺である。まず由香里が先頭に出て、袋井市役所を通過する。そのあとに翔太、酉三郎が通過する。そこで悔しがった酉三郎が作戦を練る。このレースは浜松城がゴールだから最短距離を歩けばよいと考えた。翔太が由香里にどんどん追いついている。由香里も、太田川を渡り、霊犬神社を通過する。1分後に翔太も由香里の後を追うように、霊犬神社を通過する。由香里が普通の道に入る。ここで翔太が異変に気づいた。しかし翔太は東海道をひたすら歩き続ける。翔太は30分後磐田市役所前を通過する。一方そのころ、酉三郎が御厨駅を通過する。由香里は見付ICを通過している。酉三郎は位置公開で悔しがり走って、豊田町を通過したが、天竜川を渡る。橋が少ないので大きなタイムロスになってしまった。由香里が13時過ぎにい浜松城についた。そして、翔太は5分後についた。酉三郎も20分後に続いてついた。高塚まで30分で歩いたのち、鰻屋で鰻を食べた。ここから太平洋と、浜名湖を見つつ弁天島にわたる。この辺は島などが多い地形になっている。こんなことを由香里は思った。弁天島を渡ると、湖西市になった。新居町付近で、新居関所跡を通過した。箱根に続き東海道で2つ目の関所である。30分ほど歩いていると日が暮れだした。すでに疲れて言う3人。鷲津だ。裏の道で先を急ぐ。湖西運動公園を通過して、新所原についた。鉄道に詳しい翔太は「新所原駅はホームで県が分かれているところもある」と言った。
•        新所原で愛知県に入った3人は、30分で二川宿本陣や、二川宿を見つつゆっくり進んでいる。ここで由香里が言いだす。「名古屋付近から桑名まで船が出ているけど乗る?」と言い出した。そう江戸時代は船で移動していたのだ。ここで酉三郎がつかれたし、船の乗ろうと言い始めた。しかし翔太たちは反対している。とりあえず先を進む。豊橋についたのは20時過ぎだった。3時間で三河大塚を通過し、もう1時間で蒲郡についた。とても疲れていたので今日はこの先にある、三河塩津付近のホテルに泊まった。温泉で3日の疲れをいやして翔太と由香里が寝た。原は寝ながら、時間がないと焦っていた。その点から船に乗りたかったのだ。
•        朝5時今日は蒲郡のホテルで目覚めた3人は、急いで名古屋方面に進む。2時間で岡崎を通過し1時間で安城についた。ここで朝食を食べた。ここで酉三郎が今日までしか歩くことができないと言いだす。理由を聞くとどうやら用事があるらしい。仕方がないので残念ながら歩いた。3キロほど歩くと刈谷市に入り、だんだん道も栄えだしてきた。名鉄沿いを歩いていると、豊明市に入った。ついに笠寺を通過し、熱田神宮で3人で最後の思い出作りをした。40分で名古屋に到着した。ここで酉三郎はお別れだと思ったが、事件は起こった。なんと財布が落ちていたのだ。すぐに交番に届け、不安な心を募らせながらも待ち続けたら、幸いなくした本人が来てくれたのだ。3人にこのようなことを言った。「君たちは落とし物をちゃんと交番に届けてくれるんだね。」3人は役に立ててよかったと思った。そしてなくした本人が「お礼に10パーセントあげるよ」と言ってくれ、ありがたくもらった。ついに原酉三郎は新幹線に乗って、大阪に行ってしまった。「また2人になったね」と翔太が言った。この1000円をどうするかを話しているともう15時過ぎであった。これからは近鉄や関西本線沿いの東海道を歩くか東海道本線を通るか考えた。すると由香里が「峠が大変なのは関西本線沿いだから東海道本線のほうを歩こう」と言った。翔太もそれに賛成して東海道本線のほうを歩き始めた。
•        庄内川を渡り切り枇杷島駅付近を歩いていると酉三郎からメッセージが来た。「こっちは新大阪から大阪環状線に乗って大阪を観光するよ」と来た。2人も合流したいと考え少し走り出した。20分も歩いていると清州城を眺めながら雲行きが怪しくなりつつあることを2人はまだ気づいていなかった。40分程度で尾張一宮についた。そこで空から雨が落ちてきたのだ。2人は急いで天竜川の堤防沿いを歩いた。しかしその時には、雨がだいぶ強くなっていたのだ。15分ほど恐る恐る歩いていると「ゴロゴロ」と音が鳴りびっくりした。見ると雷、大雨警報が出た。とりあえず30分歩いて木曽川駅について作戦会議をした。もらった1000円をどう使うかだ。この金額だと大人1000円の区間まで行ける。そして、それは峠越えに使おうとしていたが今使うか相談したのだ。そして駅員さんに聞いた。「ここから米原でっておいくらですか?」駅員さんは言った。「子供でしたら490円ですよ。」驚きの報告に2人は驚いて電車に乗り込み、岐阜、大垣で乗り継ぎ米原へ向かった。この旅初めての電車移動である。2人は電車のありがたみを改めて感じながら、天下分け目の地、関ヶ原付近を通過した。米原駅を降りると、虹がかかっておりとてもきれいであった。そして1時間20分程度で彦根に行き、一息ついた。ご飯を食べた後2時間ほどで琵琶湖がよく見えるようになった。「きれいだね」と翔太が言った。さらに30分歩いて能登川駅についた。1時間ほど琵琶湖を眺めながら歩いていると安土城を通り過ぎ、近江八幡駅を通過した。さすがに電車に乗ったとはいえ、大変なので疲れが見られてきた。40分ほど歩き篠原についた。
•        午後11時野洲の外れのほうを歩いていた2人が「今日はどこまで行く?」と話し合っていた。「とりあえず草津くらい行きたいね」などと野洲川を渡り守山市に入った。30分ほど歩き守山駅につき守山のホテルに泊まった。一方そのころ、酉三郎は道頓堀の屋台などを見て、大阪の旅行を楽しんでいた。2人の位置情報を見ると、守山のホテルにいたのでびっくりした。電話をしてみると電車に乗ったことを聞いて、びっくりした。今日は明日に備え寝た。
•        朝6時何とか今日中についておきたいと思った2人は、15分で栗東を通過しもう25分で草津線の線路が見え、草津についた。草津で朝食を食べ、続きを歩いた。かなり大変だったが、東海道を歩けてとても良い機会になったと由香里は思っていた。そのあと順調に南草津、瀬田と2時間で通過し、瀬田川を渡った。そのころ酉三郎は大阪城に行っていた。翔太と由香里が歩くこと1時間30分後に大津についた。大津からは峠を越えなければならないので「大変になる」と翔太が言った。国道1号沿いを歩きいよいよ京都府と滋賀県の県境を渡った。そして山科に入るとセブンイレブンなどの色が違っていたことに、翔太が気付いた。由香里が、景観維持のために「目立たない色になっている」と言った。そして2時間ほどで京都についた。そこでスマホに着信が来た。そしてついに東海道の終わり、三条大橋についた。着信を見てみると酉三郎だった。なんと、600円電子マネーが届いたのだった。大阪駅までの価格は280円だったので2人は大阪まで行き、酉三郎と無事に合流し、この旅の終わりになった。

ありがとうございます。