18京都・街の湧水、古井戸考

古井戸の形

 源頼朝が武家政権の鎌倉幕府を開き、拠点としたのが神奈川県鎌倉市。同市が20年ほど前に市営駐車場整備のため前浜の由比ガ浜近くで土砂を掘り下げた。人骨が無数に出土し、鎌倉時代に死んだままの状態で埋めた集団墓地と分かった。聖マリアンナ大医学部(川崎市)の教授が死因調査のため人骨を調べたところ、ほとんどが肺疾患と分かった。
 狭い家の中で、竈(かまど)で薪(まき)などを燃やして煮炊きしたり、炉で暖をとったらしく、家の中は煙が充満した。煙を吸い込んでほとんどが肺の病にかかっていた。当時、庶民の家は掘っ立て小屋同然で、屋根は木の板をかぶせて上に石を乗せていた。井戸は家周りにあったとみられている。現在の日本家屋の原型ができたのは室町時代以降とされている。
 第二次世界大戦後の急速な復興で生活様式はガラリと一変した。さまざまな商品の物量が盛んになり、米本位制が崩れて貨幣経済が庶民生活にまで及ぶようになる江戸時代中期ごろまで、下々は掘っ立て小屋同然の住まいで、寝る場所でさえ板敷きにゴザだった。畳は超高級品だったとされている。

すり鉢状の古井戸

  では、人は水をどのように確保していたのか。人間にとって命をつなぐ水の確保は生きるうえで必須だった。水は神仏の加護とされた。古代は山すその沢の清流か、川のそばの伏流水の湧(わ)き水に頼った。
 次に山すそで横掘りしたり縦掘りした浅井戸を設けた。水の便の悪い場所ではすり鉢状の井戸を掘った。稲作が始まると、水利の便が悪く湧き水がないところは縦掘りの浅井戸で水を確保した。


「小町化粧」の古井戸

 随心院にある小野家跡の小野小町「化粧(けわい)」の井戸は平安時代前期ごろの築造とみられている。紫式部の屋敷跡とされる蘆山寺にある鎌倉時代に築造の元東北院跡のすり鉢状の古井戸と似た造り。興聖寺にある古井戸を模した蹲踞(つくばい)は江戸時代とされている。いずれも、似通ったすり鉢のような形状だ。平安、鎌倉、室町、江戸時代もほぼ同じような井戸のある暮らしぶりだったと思われる。
 江戸時代の文化・文政期のころになると貨幣・商品経済が芽吹きだし、大百姓ともなるとカネ回りが良くなった。深掘り井戸が普及したのは公家や貴族など一部の金持ちや有力な寺社、大名屋敷、城以外は、江戸時代中期以降からだという。深井戸は井戸屋形(やかた)の上に滑車をつけた釣瓶(つるべ)に木桶を付けて水をくみ上げた。手押しのいわゆる「ガシャポンプ」が出回ったのは明治時代以降とされている。
 上水道の普及は急激に生活の変化につながった。井戸は埋められ、井戸を祀(まつ)った井戸神様は消えてしまった。厚生労働省の統計によると、上水道の普及が全国平均で50%ぐらいになるのは1960(昭和35)年ごろ。第二次世界大戦の終結ごろまで、大都市を除いてほとんどの地域は井戸水に依存していた。
 井戸は地下水脈にあたるまで、人の力で縦穴を掘り続けた。水が湧(わ)けば、掘るのを止めた、掘った後の内側には木の型枠をはめこみ、土壁の崩れを防いだという。内壁に自然石を積み重ねた井戸は、人手と資金力がある家々は平安時代から。多くは近世になってからとされている。
 縦掘り井戸は地下水が豊富な場所なら1㍍も掘り下げれば湧出するが、深さ10㍍以上も掘り下げる場所もあった。三方を緑濃い山並みに囲まれ、鴨川と桂川が南流する京都市内の地下には水を蓄える地層構造の地下水タンクがあるといわれ、地下水が豊か。かつては、だいたい2、3㍍掘り下げれば、水が出た。深くて数㍍程度だった。水は木桶などでくみ上げた。人が飲むだけなく、神様にも仏様にも供(そな)えた「閼伽(あか)水」の井戸でもあった。
 古井戸の中で趣味的に好きな井戸は浅井戸の「閼伽井」。水を大事にした人たちの思いが感得できるからだ。山すそを横掘りしたり、縦掘りしたり、縦横のどちらでもいい。ドッと湧き出す水ではなく、土壁や底からジワジワと浸(し)み出す井戸が「閼伽井」にふさわしいと思っている。
 掘り井戸は、石積み壁でも外からの土砂の混入や雨水などの影響を受けやすいため、次第にすたれてしまい埋められてしまった。かつて井戸屋形といわれた手水舎なんて気の利いたものはない。井戸の場だけだった。古い型式の井戸が現在も残っているのは極めて珍しい。
 上水道の普及以降に産まれた世代は、電気と同じようにこの世に誕生する前から存在する所与のものとして、在るのが当たり前だった。かつて祖先が苦労した水の確保などに気を回すことはほとんどなくなった。水の恵みをありがたく思い、井戸端に井戸神様を祀り、感謝することもなくなった。京都には井戸に感謝する、そんな気分がいくらか息づいている。

底に手洗い鉢の蹲踞を置いた興聖寺の古井戸

 井戸が再び脚光を浴びたのは、1995(平成7)年の阪神淡路大震災、2011(平成23)年の東日本大震災で水道、電気、ガスのライフラインが破壊された後だった。大きな被災があって行政もやっと災害用に備えた井戸を見直した。
 蘆山寺(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)にある鎌倉時代の東北院旧跡の古井戸「雲水(くものみず)井」や、山からしみ出る湧き水をためた松ヶ崎の「桜井」などを取り上げたついでに、「雲水井」と同じようなすり鉢形状の古井戸がある随心院(山科区小野御霊町)と「織部寺」ともいわれる興聖寺(上京区堀川通寺之内上ル)を訪ねた。随心院の井戸は小野小町の屋敷跡にあり、「小町化粧の井戸」とされ、興聖寺は古井戸のような形状を模した手洗い用の蹲踞(つくばい)だった。

63随身院・小町「化粧」の井

 随心院(ずいしんいん)にある小野小町「化粧(けわい)」の井戸は、随心院の唐破風づくり門前にある梅園南側の孟宗竹(もうそうだけ)の竹林の中にあった。2023年3月9日に訪れた。階段の一番下の10段まで降りると、推定で深いところには50~60㌢ほど澄んだ水がたまり、竹笹の葉が浮かんでいた。手を伸ばすと水に触ることができた。

水がたまった「小町化粧」の井戸

 古井戸があるのは随心院の創建前にあったとされる小野家の屋敷跡。地面を縦掘りした井戸で、地表は円形でなく、いびつ状態。口径は一定でなく幅1~3㍍の穴だった。深さは2~3㍍ぐらい。井戸の壁面はかなり古い様式の木の型枠でなく、大小の自然石を積み重ねていた。安時代前期の井戸とみられている。

掘った後の土壁に自然石を積み重ね円筒形状にした「小町化粧」の古井戸

 この小野地区は古く小野一族が住みつき、小野郷と呼ばれたところだったという。随心院が創建される前、井戸の辺りに小野家の屋敷があり、仁明天皇に仕えた小町が30代半ばごろに宮中勤めから退いた後に住んだと伝承されている。井戸は屋敷の井戸だったという。
 訪れるたびにいつも底に水が無く、空井戸だった。今回、訪れた日は澄んだ水があって、なぜかホッとした気持ちになった。

「小町化粧の井」のいわれ書き

 屋敷跡にはほかに井戸は見当たらず、井戸水は生活用水に使われたと推察した。小町にちなんで「化粧」の井戸と名付けられたかもしれない。小町が朝、この井戸水で顔を洗い、顔を映したかもしれないし、神仏に水を供えたかもしれない。想像が膨らんだ。
 「小町化粧の井戸」のいわれは江戸時代後期に刊行された京都の地誌「都名所図会」で紹介されたのがきっかけ。図会の文は京都の俳諧師が伝承をもとに書いた。
 小野一族といえば、崇道(すとう)神社、小野神社がある左京区上高野地区も小野氏の拠点だったという。崇道天皇とは桓武天皇の実弟で公家の高官暗殺事件に関与した疑いで島流しにされ憤死した早良(さわら)親王。親王のうらみつらみを恐れて皇位は継承していないものの崇道天皇の称号が贈られた。
 小野神社は聖徳太子の側近として仕えた小野妹子(いもこ)や平安時代前期の公家で珍皇寺(東山区)の井戸から、この世とあの世を行ったり来たりしたと伝えられる小野篁(たかむら)の出身地とされている小野地区の氏神様。山科の小野郷と同じように、小町が篁の孫娘とか、篁の娘とかいわれる伝承があるが真偽は不明。ここにも松ヶ崎の「桜井」と同じように、山から湧き出した水をためる自然石を積み重ねた浅井戸がある。

小町への恋文などを納めた文塚

 随心院は奈良街道沿いにあり、本堂の玄関は西向き。本堂の裏手(東側)に高塚山(標高485㍍)がデンと構えている。「ここら周辺の山では最も高く、唯一、山頂に一等三角点があって、見晴らしがいい」という。地元の女子児童(小学生)が淡いピンク色のそろいの着物姿で踊る「はねず踊り」が3月26日に開かれるため開催準備をしていた地元の男性が教えてくれた。
 「はねず」とは跳んだりはねたりの意味ではなく、太陽が上り始めるころの東の空の曙光(しょこう)、淡い光、薄いピンク色のことを言い、「朱華」と書いて「はねず」と読むという。美女の小町ならいかにも似合いそうな色合いだと思った。梅園は3月11日に開園したが、紅白の梅はまだ3分咲き程度。19日から26日にかけたころ満開になるという。
 小町の文塚は本堂の裏手にあった。文塚は深草少将らから寄せられた文など千束の文を埋めたと伝えられる。文塚入り口の両わきには笹竹で作った垣根が整備されていた。化粧水も文塚も拝観料なしで見ることができる。
 随心院は山科区小野御霊町にある真言宗の大本山寺院。平安時代中期の991(正暦2)年、真言宗高僧の仁海(じんかい)が一条天皇から小野氏の屋敷の隣地を寺地として下賜(かし)され、991(正暦2年)に曼荼羅寺(まんだらじ)として開山した。

随心院の門

 仁海は真言密教の灌頂(かんじょう)や修法(ずほう)の流儀作法の一つ、小野流を始めた空海の弟子・聖宝(しょうほう)のそのまた弟子。日照り続きの干ばつがあると、空海と同じように中京区の二条城のそばにある神泉苑で雨乞(ご)いの祈祷(きとう)をした。祈祷はすべて成功し、そのたびに雨を降らせたことで知られている。
 随心院は当初、曼荼羅寺の塔頭寺院の一つとして建てられ、皇族や摂政家筋の公家が住持として入寺する門跡寺院となった。多くの堂宇(どうう)が整備されたが、鎌倉時代の1221(承久3)年に後鳥羽上皇が朝廷の復権を図って、鎌倉幕府の北条義時を討伐しようと挙兵したものの敗れた承久(じょうきゅう)の乱、1467年から10年間続いた応仁の乱でほとんど焼失。移転を繰り返した。
 1599(慶長4)年に曼陀羅寺の跡地に本堂が再興された。これ以降の江戸時代、九条家と二条家の摂政家から門跡として住持が入山した。現在の本堂は九条家からの寄進だという。

64興聖寺の古井戸

 興聖寺の「降り蹲踞」がある古井戸状の穴が中庭にある。穴は深さ2、3㍍ほど掘り下げてある。穴の口径は地表で1、2㍍ほど。底に行くほど穴が小さくなり尻すぼみのすり鉢状となる。
 底の真ん中に白と水色の釉(うわぐすり)を使い、線の模様を描いた口径25㌢ほどの陶器製の鉢を使った蹲踞が置かれていた。底まで降りるのに2カ所の石段がある。階段を下まで降りて、手が洗えるように造られている。
 蹲踞が置かれた下に円筒形の筒がある。底の下に円筒形の筒を入れて、当初は地中から湧(わ)き水を得ようとしたかもしれない。筒の中に石柱が埋め込まれ、石柱の上に蹲踞が置かれていた。ほかに創建当初の井桁(いげた)が中庭に残るので、蹲踞目的に掘られたような可能性もある。

白と水色の釉を使い、線の模様を描いた口径25㌢ほどの陶器製の鉢を使った蹲踞

 穴の底や穴の土壁側面に自然石を埋め込み、底から土砂が噴き出したり側面の土が崩れないようにした。井戸ではなくて、茶室に入る前に手を洗う蹲踞(つくばい)だという。穴の周りと底には雨水が土中に浸み込むように白い砂利を敷き詰めている。色濃い緑の苔とのコントラストが美しく、白い砂利で清浄さを出した。

降り蹲踞

 「降り蹲踞」は「織部寺」に似つかわしく、後世に古井戸をまねて造ったかもしれない。地表の一部を掘り下げることで庭に凸凹をつけて見た目に変化をもたせ、古井戸様に造った。当初から構想して「降り蹲踞」を設けたとしたら、織部らしく奇抜なアイデアだと思った。同じような「降り蹲踞」は大徳寺の塔頭寺院「高桐院」の庭にも残されているという。

中庭にある創建当初の古井戸と石製の円形蹲踞

 こうした「降り井戸」は平安時代からの古井戸の原型といってもいい。紫式部が使ったという蘆山寺の「雲水の井」の古井戸、小野小町化粧の井戸と名高い随心院の古井戸も同じ様式だ。穴の底や土壁から地下水が浸み出して井戸水となる。興聖寺の中庭には室町時代から江戸時代特有の井桁をした別の古井戸と石製の円形をした蹲踞があった。

中庭にある手水場
湧き水がある池泉式庭園

 興聖寺の一帯は賀茂川の右岸地域。下鴨神社の西方にあたる。高野川と賀茂川が合流する下鴨神社から下流の鴨川はかつてしばしば氾濫(はんらん)して洪水を起こした。
 賀茂川も、鴨川と高野川が合流する下流の鴨川も川床は現在より高く、大雨ともなれば急流が一気に下る暴れ川だった。秀吉や徳川幕府が護岸堤防の整備など河川改修を手掛ける以前は氾濫域が広かった。京都市街地の発掘調査で地層の堆積構造を見ると、河川土砂の堆積から氾濫が分かる。

掃き清められた興聖寺境内と法堂
方丈主間の格天井に描かれた四季の絵のうち「雪景色」

 興聖寺は明かり窓が多く外光を取り入れた茶室造りと、独特のデフォルメや緑釉(りょくゆう)の使い方など独自の陶器の作風を築いた茶人で戦国武将の古田織部が資金を出して江戸時代初めの1603(慶長3)年に創建された。上京区堀川通寺之内上ル2丁目天神町にある。
 臨済宗興聖寺派の本山で、茶道織部流の祖でもある武将・古田織部とのかかわりから「織部寺」とも呼ばれる。船岡山の東方で、堀川通りを挟んだ向かいには湧き水がある水火天満宮がある。
 江戸時代に建てられた本堂(仏殿)には天井に「雲龍図」が、また方丈の主間には四季の絵が描かれている。明かりを多く取り入れた茶室「雲了庵」がある。(つづく)(一照)

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