31京都、街の湧水、水神信仰6

鴨川源流域、北山の水源

 鴨川源流域の北山に水神を祀(まつ)る社寺がある。貴船山(標高700㍍)の東麓にある貴船神社と、鞍馬山(標高584㍍)南麓にある鞍馬寺。北山杉の産地とあって、周辺の山々は植林の北山杉の黒山。貴船山は常緑と落葉広葉樹の混交林、鞍馬山はカシ類が主の常緑広葉樹が生い茂る森に大径木の天然のスギ、ヒノキなどの針葉樹、クヌギやコナラの落葉広葉樹が混在する混交林だ。2カ所の山とも最大瞬間風速30㍍超を観測した2018年9月末の台風21号で倒木や枝折れの大きな被害があった。

貴船川と合流する付近の鞍馬川

鞍馬山は水涸(か)れの骨山

 特に鞍馬山は山の水涸れが続き、水洗トイレの使用も制限されるほど。鞍馬寺の岩清水「義経息継ぎの水」は水滴がポタッ、ポタッと落ちる程度しかなかった。「常緑広葉樹の茂る鞍馬寺でまさか」と思った。台風21号で鞍馬寺では奥の院に通じる参道が落ちた枝で参道がさえぎられてしまった。
 山仕事をする人たちの間では、水涸れ状態の山を「骨山」と言うそうだ。水をたくさん蓄えた山は「肉山」と言う話を聴いた。
 寺務所職員によると「夏場は水涸れが生じることもあった。山水を蓄える山の腐葉土がだんだん少なくなってきている。このため山肌にじかに陽光があたりジワジワと乾燥化が進んで、四季を通じて山自体の水が減少している。鞍馬寺だけでなく、どこの山も同じ現象が起きている。乾燥化の原因は詳しく分からないが地球温暖化の影響かもしれない」という話だった。
 学術的に裏付けける調査結果はないが、現場にいる人の感覚は大切だ。「温暖化の影響とは」と考え込んでしまった。
 一定程度、温暖化が進むと温暖化は加速する。エネルギーすべてに通じることだが、一般的に温度もある程度加速すると暴走する。海水温も同じ。魚族の生息域の変化などから海水温はすでに暴走が始まっているとみている。山も同じだとすると、すでに暴走が始まっているかもしれない。深刻だ。
 貴船神社本宮と奥社の御神水とも岩清水が常に変わらぬ水量があり、うれしいことに健在だった。

105貴船神社「御神水」

 水神といえば、水の神様といわれているのが国内にある貴船社の総元締め、貴生彌(きふね)総社の貴船神社。神社は「水は万物の命の源」を全面に打ち出し、石清水の水を御神水としている。

貴船川の清流

 近ごろ、神社本宮と奥宮の間にある「結社」や、針葉樹のスギと広葉樹のカエデが一体となった「連理の木」、平安時代半ばの歌人、和泉式部が良縁を願って日参したことなどにちなんだ縁結びとか、京都市街地にある「鉄輪(かなわ)の井」の丑(うし)の刻(午前1時から午前3時ごろ)参りの伝承から「縁切り」とかが人気で、水は二の次になっているような感がしないでもない。
 上水道の蛇口をひねれば、いつでも水はあるという時代から約半世紀。世代は大きく交代、人心も大きく変わり、古代から水の確保に難儀してきた歴史や水のありがたさなど、とうの昔になってしまった。
  貴船神社は貴船川沿いにある。湧(わ)き水は2カ所あった。1つは本宮社殿の階段を1つ上がった「水占(みずうら)みくじ」の水場隣、2つ目は奥宮の神門前の左側の山すそ。2カ所とも苔むした石垣護岸の中から湧き出していた。山が涵養(かんよう)した山水があふれ出す岩清水だ。水は「御神水」といわれる。

苔むした岩に差し込んだ竹筒の筧から流れる本宮の岩清水

 本宮の水場は石垣の間に突き刺した竹筒の筧(かけい)から手水場に注いでいた。本宮の水場の水量は推定で毎時1500~2000立方㍍ぐらい。ちなみに本宮わき左手にある手水場の水は「沢水」という注意書きがあった。うっかり飲んでしまったが、腹痛などの異常はなかった。水温は11・5度。口当たりが良く、柔らかだった。

岩清水の奥宮の手水場

 奥宮の水場は石垣の間から湧き出していた。両方の水場には木製の柄杓(ひしゃく)が備えられていた。本宮わきの岩清水の「御神水」を飲み、続けて奥宮前の山水を飲んだ。この2カ所とも沢水よりもやや冷たく、沢水と比べてやや硬かったが、さわやかな水と感じた。水質は表示されていなかったが、軟水という。
 2カ所の山水とも、水場の上は貴船山の急な山すそのスギ山だった。スギが植林されていない周辺の山をみると、クヌギ、コナラの落葉広葉樹が主でところどころにスギがあった。貴船山もクヌギ、コナラが伐採された後にスギの植林がかなり行われたらしい。

貴船神社、直上の斜面はスギの植林地

 マツタケの産地の山人はスギを嫌う。かつてアカマツが点々と茂る山だった。戦後間もない植林でどこもスギを植林した、黒々と見える山を「黒山」と呼ぶ。黒山となったら、マツタケなど食用キノコ類は採取できないという。
 それでもスギ山は水を涵養していた。古代から湧き続けている水で涸(か)れることはなかったという。スギ山で少なくとも毎時2000立方㍍の湧水があるなら、落葉広葉樹が多かった混交林の山だったころは、もっと多くの水量があったと思われた。
 混交林の山は常緑広葉樹と落葉広葉樹、スギ、ヒノキの針葉樹が互いに栄養分を供給し合い助け合って生きる共生の森だという。共生の森だからこそ腐葉土が培われ、豊富な水量が供給される。
 

貴船川での納涼床の準備

 貴船神社の水は神社わきを流れる貴船川にそそぐ。川には参道沿いにある旅館や飲食店の納涼床の設置が進んでいた。
 貴船川は鞍馬山が源流の鞍馬川に流入し、鞍馬川は賀茂川に合流する。貴船川と鞍馬川は冬季に積雪があり、京都駅近くの七条通りや八条通りなど南部の高所からうっすらと雪をかぶった洛北の山々を遠望できる。
 気象学が現在のように科学的になる以前、気候の変動は神の仕業とされてきた。神頼みが唯一の救いだった。旱魃(かんばつ)の際は雨乞い、大雨や長雨の時は雨やみを貴船の神々に祈願してきた。

貴船神社本宮の社殿

 科学が発達する以前の昔は陰陽道や神道などの影響で方角占いをすごく気にした。平安時代初め、御所を中心として丑寅(うし・とら、北東)の方角は鬼門(きもん)、この反対の方角の未申(ひつじ・さる、南東)の方向は裏鬼門とされ、それぞれ邪気や悪霊の出入りする禁忌(きんき)の方角とされた。玄関や炊事場を設けたり、この方角をいじくったりすると祟(たた)りがあると信じられてきた。
 きれいな水は邪気や悪霊を払うという古くからの水神信仰が大きく影響した。この水神信仰は疫病払いの祇園祭りなどに引き継がれている。

貴船神社入り口の大鳥居

 貴船山の中腹にあるにある「鏡岩」に水神の高龗(たかおかみ)神が丑(うし)の年・丑の月・丑の日、丑の刻に降臨したという伝説がある。また、神社よりさらに奥まった鞍馬山にある鞍馬寺では開創者の鑑禎(がんてい)が鞍馬山上で毘沙門天(びしゃもんてん)を拝したのが奈良時代の770(宝亀元)年の寅の月、寅の日、寅の刻という伝説がある。
 御所から見て丑寅、未申の方角には大きな社寺が都の守護をして立地してきた。貴船神社も鞍馬寺も比叡山なども丑寅の方角。未申の方角には壬生寺などがある。

奥宮の神門

 貴船神社の創建年代は不明。神社のホームページや社伝によると、平安時代初期に編さんの史書「日本後記」で677(白鳳6)年に社殿造替の記録があるとされている。伝説によると、初代天皇・神武天皇のころ、神武の母とか上鴨神社の主祭神・賀茂別雷(かものわけいかづち)の母ともされている玉依姫(たまよりひめ)が浪花(なにわ)の浜=茅渟(ちぬ)の海、大阪湾=から黄色い船「黄船」に乗って淀川から鴨川、貴船川を遡上(そじょう)し、水の湧き出す奥宮の地に祠(ほこら)を建てたのが起原といわれている。

泉式部が禊をしたという沢

 本宮から奥宮に行く参道沿いに平安時代の歌人、和泉式部が禊(みそぎ)をしたとう小さな沢があり、少しの水が流れていた。年々水量が少なくなっているような感じがした。貴船山でも、やはり山水涸れの減少が起きているのかもしれない。40年ほど前から訪れているが、「思ひ橋」を渡りながらそう思った。

「黄船」の周りを石で囲ったという船形石

 奥宮の前に「黄船」を石で囲ったという「船形石」がある。黄船のいわれから航海安全の神としても祀られる。神奈川県小田原市に近い真鶴町の真鶴漁港のわきに洛北の貴船神社から勧請(かんじょう)した貴船神社がある。船にたくさんの飾りを付け港内を航行する「お船祭り」で知られる神社。水がわき出ていないのに、なぜ貴船神社かと思ったが、「黄船」の関係で、漁労航海の無事を祈ったということがここにきて分かった。
 寺伝や神社のホームページによると、奥宮は霊泉「吹井」の湧く「黄船の宮」といわれたという。奥宮の真下に大きな穴があり「龍穴」と呼ばれ、だれも見たことがない神聖な場所とされている。京都を紹介するテレビ番組で芸能人が訪れて、よく非公開の場所を公開することがあるが、テレビでも見たことがない。奥宮は1046(永承元)年の洪水で壊れた。

奥宮の社殿、下に龍穴があるという

 1055(天喜3)年に改めて本宮を現在地に移設したという。奥宮には本宮から歩いて10~15分ぐらい。本宮、結社、奥宮の三社がある。本宮から奥宮に向かう参道には大きな杉の並木と夏季に貴船川の流れに納涼床を設ける旅館や飲食店がある。

貴船川左岸にある小さな滝

 古代から水神を祀る賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)の摂社とされてきた。何度も独立の動きがあったが、ようやく明治時代に入って独立した法人の貴船神社になったいきさつがある。
 神社では貴船は音読みで「気生根(きふね)」とも宣伝する。「気が生まれるところ」「万物のエネルギーが生じる地」、パワースポットの場所として売り出してもいる。

106鞍馬寺・別の水源地から引水

 鞍馬山の山門を入り、参道にある由岐(ゆき)神社から鞍馬寺本堂まで99坂を歩いた。目的は境内にある手水場の水をすべて飲み、特に本堂に向かって右手にある護法善神社の「閼伽(あか)水」と、源義経が修行中に飲んだとされる「息継ぎの水」を飲むことだった。鞍馬寺を訪れた2023年5月26日午前中、ケーブルは定期点検で運休中。歩いて登れということだと思って、つづら折りの坂を登った。
 鞍馬山は照葉樹林の森だった。シラカシ、アラカシ、ウラジロガシ、ツクバネガシなどカシ類を中心にサカキ、ツバキなどがある。スダジイなどのシイ類はほとんど見かけなかった。落葉樹のカエデやモミジ類はあったが、クヌギ、コナラの落葉広葉樹もあまり見ることはなかった。この照葉樹林の中に大径木のスギ、ヒノキやツガ、モミと言った針葉樹が混在する混交林だった。林相を見る限り、腐葉土も多いはずなのに、なぜこの山が水涸れになるのか全く分からなかった。

何年も前から水涸れ状態に

 寺務所の職員はこう話した。「何年も前から山は水涸れ状態が続き、境内にある手水場の水は、寺から北に約6㌔離れた水源地から引水した水を使っている。以前はそれぞれ手水場は近くで湧き出した山水を使っていた」と聞かされた。山水を導水している水源地域の詳しい場所は「内緒」と言われた。特定の山名、沢名はもちろん聞けなかった。「名もない山です」とだけ話された。
 江戸時代初め、徳川幕府は1615年、鞍馬山での山林乱伐の禁止令を出した。樹木を伐採する斧(おの)や鉞(まさかり)が入らない斧鉞((ふえつ)の森となってきた。
 林野庁によると、貴船山・鞍馬山の面積751㌶はスギ、ヒノキなどの人工林71%、天然林29%の割合とされている。風致保安林(大正2年)▽風致地区(昭和25年)▽水源かん養保安林(昭和32年)▽歴史的風土保存地区(昭和41年)▽鳥獣保護区(昭和42年)▽土砂流出防備保安林(昭和55年)に指定されている。流域の水源流量や鞍馬川、貴船川の流量は、多雨の年、少雨の年と年代ごとにかなりの変化があるほか季節的な変動もあるため不明。
 各手水場の水の水温を計測した。11・3度から11・5度だった。水を飲んだ感じ、のど越しはどれも同じ。軟水だか硬水だか分からなかったが、冷たくてうまかった。

護法善神社の「閼伽水」(左)はコロナ感染症拡大防止のため使用中止。右隣の古井戸に別の水源の水とためているという


「閼伽井」のある護法善神社

 護法善神社の「閼伽水」(正式には仏に捧げる水の閼伽、閼伽の井戸からからしみ出る井水を閼伽水という)は、コロナウイルス感染症が流行り出したころから水の供給は止められて、水にさえ触れることはできなかった。龍口の閼伽のわきに古井戸があった。古井戸からは水は湧き出していないという。山水の減少はこんなところにまで影響していた。
 古井戸のいわれは真言宗・東寺(教王護国寺)の僧・峯延(ぶえん)が修行中、2匹の大蛇が襲われた。雄蛇は読経と呪文(じゅもん)で命が絶えた。真言宗の僧なので、呪文はおそらく真言ではないかと推測した。これが「竹伐り会式」につながったという。雌蛇は「仏に捧げる水を絶やしません」と誓い、護法善神社に祀られたという。

古井戸には別の水源の水をためる

転法輪堂の手水

 別の寺務所職員によると、「井戸は浅井戸で、水は出ていない。別の水源から引いた山水をいったん井戸にためて閼伽水として出している。古井戸にためた水は、転法輪堂の手水場の水に使っている」と言われた。ちなみに水温は11・5度だった。ケーブル駅そばの多宝塔の手水場の水を同じ水温だった。
 

由岐神社の手水
由岐神社の手水場そばの小さな沢

 同じ境内にある由岐神社は寺と法人格が違い、神社の手水は神社で管理し、鞍馬寺とは別の水源だという。水温を測ったら11・3度。社務所に聴いたら「山水です。鞍馬寺とは水源が違います」と説明された。飲んだ感じは鞍馬寺の手水場の水と同じ口当たりだった。

由岐神社の手水舎

 由岐神社はかつて鞍馬寺の鎮守社。明治新政府の神仏分離令で単独の社(やしろ)となった。由岐は、肩にかけて矢を納める武具の靱(ゆき)からきているというが、何で「ゆき」の名称がつけられたか分からなかった。平安時代中期の940年、御所に祀られていた由岐大明神が、都の北の鎮めとするために移されたという。樹齢800年というスギの巨樹がある。

「義経息継ぎの水」は岩清水だった

 奥の院の参道沿いにある「義経息継ぎの水」は岩から浸み出る岩清水。水滴がポタッ、ポタッと落ちる程度でしかなかった。もっと水量が多いと思っていた。山水の涸れ現象の影響かもしれないと思った。薄茶色の山土が少したまった直径30㌢程度の自然に形成されたような水盤の水温は1・3度。
義経は源義朝と側室の母・常盤御前の子ども。長兄の頼朝とは母親違いの兄弟。義朝が平清盛の軍勢と戦った1159年の平治の乱で敗れて死亡。母子は捕えられ、常盤御前が清盛に身を任せ、牛若丸ら子どもが寺に入ることを条件に母子は命を救われた。
 牛若丸が母と別れたのは4歳のころ。7歳から約10年間鞍馬寺で過ごし、修行中に鞍馬山奥の院の「僧正が谷」で毘沙門天の化身である天狗から武芸、兵法を習ったという伝説がある。伝説通りなら、牛若丸が息継ぎの水を飲んだ頃は、もっと水量が多かったと思った。

奥の院参道・屏風坂にある地蔵堂(上の白い建物)の下に「息継ぎの水」がある

 義経はその後、西陣にある首途八幡宮に参詣して「金売り吉次」とともに奥州・平泉の藤原氏の元に旅立つ。頼朝が1183年に関東武士の支援で反平家の兵を挙げたのに呼応して奥州から挙兵。1185年の壇の浦の戦いで平氏を滅ぼした。
 数々の戦功は、頼朝の鎌倉幕府開設に至る大殊勲だった。しかし、朝廷から官位を受けたことなどから頼朝に嫌われ、後白河法皇の意図する頼朝追討を受けて挙兵するが失敗。後白河法皇の翻意で今度は逆賊とされ、奥州に逃げたが「衣川の館」で討たれ自刃した。31歳だった。
 これに先立つ12世紀後半、木曽義仲の軍勢が京の都に迫り、後白河法皇が朝敵・義仲の軍勢から逃れて鞍馬寺を経て比叡山に隠れた話は有名だ。後白河法皇はあの手この手を使うやりてだった。権謀術数の数々は何としても武士政権の樹立を防ごうとの企みだったかもしれない。
 天狗がいるのは鞍馬山ではなかった。京都で標高が最も高い愛宕山には太郎坊という天狗、比叡山の北西にある比良山には次郎坊と言う天狗がいた。鞍馬の天狗は僧正坊と呼ばれた。古くは太郎坊が格上だったが、中世になって、魔王大僧正と呼ばれた鞍馬の天狗・僧正坊が天狗人気のトップに立った。

山門正面にある「還浄水(げんじょうすい)」
参道の中門
参道・中門の手水

  手水場の水が出ているところはすべて飲んだ。山門を入ると正面に、観音さまの蓮葉から流れる「還浄水(げんじょうすい)」があった。中門を入ったところに手水場があった。

転法輪堂の手水舎

 仏像の背丈が丈六(1丈6尺、約4・85㍍)の阿弥陀如来座像を祀る転法輪堂の手水舎の屋根は苔で覆われていた。
 ここの水は「閼伽水」隣の古井戸にためた水源から引水の水がここまで引かれているという。多宝塔下にも手水場があった。奥の院入り口の正面にも手水場があった。いずれも別の離れた水源からの引水だという。

多宝塔下の手水場
奥の院入り口の手水場

 寺伝などによると奈良時代の770(宝亀元)年正月4日初寅の夜、唐から来日した高僧で奈良・唐招提寺の鑑真の弟子・鑑禎(がんてい)が、京の都がある「山背に霊山あり」との夢を見て草庵を結んだのが始まりとされている。平安京遷都を成し遂げた桓武天皇の勅命を受け、平安時代初めに藤原一族が堂宇を建立。北の護(まも)りの寺となった。
 境内は52万8000平方㍍(約16万坪)と広大。江戸時代初めから山林伐採が禁止されてきた。明治時代の神仏分離令・廃仏毀釈で寺は境内地を取り上げられた。さらに上地令(土地没収令)で境内地を国有地にされてしまった。かつてはもっと広い境内だった。毘沙門天の神域、平安京の北の護り、水源の守護地であろうと明治政府はお構いなしだった。
 横暴ともいえる明治政府の上地令について、境内地を没収された寺の中には、「むしろ取り上げられて良かった、広大な寺域を管理できるかというと、はっきり言って管理は難しい。公園になったり国有林になって国など行政に管理してもらった方が世のためになった」という寺もある。
 平安時代中期の940(天慶4)年に由岐神社を勧請した。律令国家の衰退と武士の台頭で、関東で平将門(まさかど)の乱や、瀬戸内で藤原純友(すみとも)の乱が起きたころだ。やはりに内乱を憂慮しての勧請だっとみている。

鞍馬寺本堂。手前の六角形の石がパワースポットとされる「金剛床

 長い歴史があるので寺は紆余曲折が連続だった。当初の律宗から真言宗、天台宗、天台密教、また天台宗に改宗した。平安時代末には融通念仏の良忍が寺に通った。良忍は「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という融通念仏宗の開祖。大原に隠棲(いんせい)し、天台大原・魚山声明の中興の祖となった。
 平安時代末から鎌倉時代初め、室町、江戸、明治時代にかけて伽藍(がらん)を焼失しては再建を繰り返した。1945(昭和20)年に魔王殿、護摩堂などが焼失した。現在の本殿(金堂)は1971(昭和46)年に再建された。

赤茶系や淡いブルーの通称・鞍馬石を使った参道の石段

 当初から山は、山岳修験者の道場となってきた。文字通り神仏習合の寺だった。この神仏習合を生かして仏教に修験道などを合わせて1949(昭和24)年に天台宗から独立して現在の「鞍馬弘教(くらまこうきょう)の総本山となった。奥ノ院魔王殿に「尊大(そんてん)」、正式名・護法魔王尊という独自の本尊を安置する。
 神仏習合の寺は宗派を超えて国内に多くあるが、堂々と「鞍馬弘教」として神仏習合を全面に出したのは鞍馬寺ぐらいではないのかと思った。境内地に神々を祀る寺はやはり宗派を全面に出して神々の紹介はあるものの、やはり仏が主体だ。山岳信仰、自然崇拝が日本人の心になじむ流れなら、もっと神々を前面に出しても不自然ではない。その方がすっきりして心になじむ。自然の神々をスサノヲなどの神々にこじつけ付会(深い)させることには無理があると思うが。

「尊王」が降り立ったとされる本堂わきの庭

 護法魔王尊は山神。毘沙門天、千手観音、護法魔王尊の合体した仏とされ、毘沙門天は太陽と光を、千手観音は月と愛を、魔王尊は地球と力を表すという。尊天とは、この世の命すべてを産み出す、宇宙エネルギーのことという。護法摩王尊は太古、金星から降り立った大地の霊王といわれ、天狗の元締めとされている。(つづく)(一照)

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