25京都・街の湧水、大原

87大原「朧の清水」

  安徳天皇の生母、平清盛の娘、徳子・建礼門院が隠棲(いんせい)した寂光院に向かう小道のわきに、建礼門院が顔を映したと伝承される「朧(おぼろ)の清水」があった。民家の石垣に隠れるような場所で見つけにくいが、「朧の清水」の案内板がある。

石組みの朧の清水

 山すそにある小さな石組みが「朧の清水」。石組みの大きさは横1㍍弱、縦50㌢ぐらい。石段を6段降りると、石組みの下に,建礼門院が顔を映したとされる、小さな水たまりがある。深さは20㌢ぐらい。底に落ち葉が沈んでいた。水を触ってみた。水の感触から山の湧き水だと思った。

寂光院に向かう小道のわきにある朧の清水
石段を下りると水に触れることができる

 2023年4月9,10日の両日に訪れた。石組みからは水は出ていなかった。同月7日に大雨が降ったにもかかわらず、湧水はなかった。地元の人によると、本来なら「チョロチョロとわずかに出ているかもしれないが、結構前から水が涸(か)れてしまった」という。

朧の清水近くの沢には水の流れがあった

 ただ、朧の清水の少し手前に幅50㌢ほどの細い沢からは山の上から山から浸み出した沢水が流れ落ちていた。

朧の清水近くの大原の里

   朧の清水から大原の里の向こうの南西方向に平家物語に登場する翠黛山(すいたいさん)が望めた。朧の清水のある山はだいたい標高350~400㍍ぐらい。地元の人に山の名称を訪ねたが不明だった。
 大原の里周辺の山々は、北山杉の産地らしく、ほとんどが杉の黒山になっている。杉は人工的に植林された。かつては、コナラとクヌギの落葉広葉樹とカシ類の常緑広葉樹が交じり合った混交林だったと推量される。森の中に、ホウバノキなど有用な樹木が散見されるほか、ヤブツバキなどかつての林床植物もいくらか残る。コナラやクヌギ、カシ類は伐採されてしまったようだ。

朧の清水」真上の山

  かつて大原女(おおはらめ)がコナラやクヌギなどの落ち枝や切り枝を薪(たきぎ)として頭に乗せ、野菜や花などと一緒に京の都へ売りに行っていたことを想起すれば、山の姿は大きく変わってしまった。
 朧の清水が出なくなった一因が、やはり山の姿が杉山に変わってしまったためで、水を涵養する山が杉一辺倒になって保水力が弱くなったことの証左だろうと思った。
 朧の清水は、京都バスの大原バス発着所から寂光院へ向かう途中にある。源平合戦の壇ノ浦の戦い(1185年=元暦2年)で平家軍が破れ、建礼門院は幼子の安徳天皇を抱えて、母の平時子と共に入水したという。源氏軍は天皇らを救助しようと捜索。たまたま建礼門院の長い髪の毛が舟を漕(こ)ぐ櫂(かい)にからまり、建礼門院だけが救助されてしまったと伝えられている。

本来なら石組みから水が湧き出しているはずの「朧の清水」

 平家一門が滅びる中、建礼門院は京の都に連れ戻された。出家して、都から寂光院へ向かう途中で、湧き水のあるこの辺りで日が暮れてしまった。月明かりの中、湧き水に立ち寄ったらしく、建礼門院の顔が湧き水の水たまりにおぼろげに映ったと伝えられている。
 朧の清水のいわれだ。「朧」は平家の短い権勢、建礼門院のはかない生涯をも合わせ持つ意味をも含んでいると思った。平家物語では後白河法皇が建礼門院を慰問した。あくまで推測の域を出ないが、後白河法皇もこの清水を口にしたかもしれない。

「朧の清水」北側の杉林の山

 朧の清水には後の世、京の都に住んだ徒然草の筆者・吉田兼好や与謝蕪村らが訪れた。蕪村は「春雨の中におぼろの清水かな」と、春雨のように煙る、一時のはかない生涯の建礼門院をしのぶ句を詠んだ。
 由緒ある湧水なのに、水が湧き出していないのがすごく惜しまれた。

88三千院「瀬和井」

  三千院の湧水・瀬和井(せがい)は参道の上り坂を歩き、三千院に行く左手に曲がる角にあった。三千院の南東隅、三千院門跡と彫った石柱と風化した、小さなお地蔵さんが瀬和井のそばにあった。瀬和井は石組みの小さな穴。穴のわきに水たまりがある。

「瀬和井」
「瀬和井」の石組み
「瀬和井」の場所は「三千院門跡」の石標、風化しお地蔵さんが目印

 2023年4月9、10日の両日、訪れたが石組みの穴からは水は出ていなかった。同月7日に大雨が降ったのに水は湧いていなかった。水たまりには水がたまっていた。しかし、それほどきれいでなく、飲めそうになかった。

呂川の清流
「聚碧園」の池

  三千院の南側に呂川((ろせん)が流れる。三千院の客殿わきの池泉回遊式庭園「聚碧園(しゅうへきえん)の池や、阿弥陀如来像と観音菩薩像、勢至菩薩像を祀(まつ)る本堂の往生極楽院わきの池泉回遊式庭園「有清園(ゆうせいえん)の池の水は呂川からの引水という。

呂川の清流を引水した蹲踞
植物が植えられた蹲踞

 客殿などの建物わきにある4カ所の蹲踞(つくばい)に樋(とい)から水が出ていた。職員に聴いたら、「三千院には井戸はなく、境内にある池や蹲踞の水はすべて呂川(ろせん)から引き込んだ水。飲めない」と言われた。境内にあるとされる湧水の「金色水」について、職員に場所を聴いたが「古井戸や湧水は境内にはない」と説明された。
 それだけに湧水「瀬和井」の水は貴重だった。どうにか湧水が復活しなものかと思った。
 三千院の南北両サイドに渓流がある。南側の呂川、北側の律川(りっせん。両方の細流を合わせて「呂律(ろれつ)」という。三千院より奥、律川の上流にあるのは天台声明の道場寺院「来迎院」。声明は節回しがきわめて難しい。真似をすると、音痴になったような気がする。「呂律が回らない」は、ここから来たという。

律川の「音無の滝」

 三千院のある小野山の中腹に「音無(おとなし)の滝」がある。律川の上流部という。滝の下に砂防ダムの堰堤(えんてい)があり、堰堤にはきれいな水がたまっている。

砂防ダムの堰堤にせき止められた水場にある取水管

 その堰堤わきの水たまりの中に取水菅があり、取水菅は三千院手前にある2つの貯水槽に貯められる。この貯水槽から引水されている水もどこかで使われているようだ。律川にはところどころ、山水が注いでいた。

三千院の本堂「往生極楽院」
呂川のせせらぎ

 呂川の水は「飲めない」と言われたが、呂川はきれいな、澄んだ清流そのもの。煮沸すれば、十分に飲用できると思った。呂川は三千院参道沿いに流下する。上水道が敷設される以前、参道に並ぶ土産物店、飲食店、民家などが古くから洗いものなどに利用してきたという。

89律川「音無の滝」

 かつて大原は魚山と呼ばれていた。魚山を代表する水場、三千院の近くにある「音無(おとなし)の滝」は白布が流れ落ちるように瀑布(ばくふ)の音もなく静かに流れ落ちていた。2023年4月7日に降雨があったばかりなので、訪れた4月9、10日は水量が結構あった。

「音無の滝」
「音無の滝」上段
「音無の滝」下段。小さな滝つぼがあった

 「音無の滝」は律川の上流部、大尾山(別名・梶山、標高681㍍)の南にある小野山の中腹にあり、別名「一の滝」といわれる。2段構えの滝で落差10㍍ほど、幅は3、4㍍。「二の滝」「三の滝」は大尾山の登山道の途中にある。
 三千院の南側を東西に流下する呂川沿いの上り坂を歩くと、いつのまにか律川(りっせん)に変わっていた。律川は三千院の北側を東西に流下しているとばかり思っていたが、どこで律川に変わったか分からない。

来迎院の入り口

 後で地図で調べると呂川は、天台声明の道場寺院で知られる来迎院の手前辺りから東の山に入り、来迎院の前辺りはもう律川になっていた。三千院上の砂利道を登ると浄蓮華院、来迎院に着く。来迎院からさらに10分ほど登ると「音無の滝」に行きつく。
 魚山とは、唐(古代中国)での声明の聖地。平安時代に遣唐使として入唐した比叡山の天台僧・円仁(第3代天台座主、慈覚大師)が、お経に節をつけて歌う仏教歌唱の梵唄(ぼんしょう)を学んで帰国。梵唄を声明として、天台声明の修行道場として来迎院を開創した。一時、さびれたが、後に融通念仏の祖となった平安時代後期の僧、良忍(聖応大師)が再興した。

律川に注ぐ山水

 声明は経文の短い語彙(ごい)をやたら伸ばしたり、同じ短い経文の途中で音階が変わるなど節回しが難しい。良忍が「音無の滝」の前で声明を練習していると、声明の大声に滝の音が重なって瀑布が聞こえなくなったという。「音無」はこれに由来し、良忍が「音無の滝」と名付けたという。声明の節回しは後に民謡、演歌の源流となった。

律川の清流

 三千院の「瀬和井(せがい)」や大原の小道にある「朧の清水」に清水が湧き出していなくても呂川と律川のせせらぎ、「音無の滝」や高野川の流れを見るたびに、大原は改めて水の里と感じ、来て良かったと思う。
 三千院から来迎院、音無の滝に行く奥山はほとんど人気がなく、森閑として渓流のせせらぎもあって空気がひんやりして、すがすがしい。(つづく)(一照)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?