29京都・街の湧水、水神信仰4

99聚楽第跡「梅雨の井」

  西陣の中心部が荒れ放題に荒れていた。草茫々(ぼうぼう)の荒れ地の中に聚楽第(じゅらくてい)跡の「梅雨(つゆ)の井」があった。聚楽第の数少ない遺跡の一つだ。京都市内の湧水、古井戸に触れる際、どうしても欠かせない古井戸の一つ。

くみ上げ用の手押しポンプがある梅雨の井の跡

 秀吉は1585(天正13)年には摂政・関白の近衛家など五家の人しか就けない関白に。源平藤橘に次ぐ「豊臣」の姓をもらい、京に入った。自らの住居と政務の場所として聚楽第を1587(天正15)年に設けた。
 梅雨の井が現在あるのは上京区東堀町の私有地。西陣の真ん中だ。井戸の遺跡は聚楽第の東南隅か聚楽第本丸南東櫓(ろう)または東辺の城壁付近とされているが、正確には分かっていない。梅雨の井がこの聚楽第建設時に設けられたのかは不明。一部には聚楽第取り壊し後の安土桃山時代に掘られたとされているが、確認のしようもない。

梅雨の井跡の辺りは草ぼうぼうの荒れ地

 かつて、この辺りは清水町とも呼ばれた。近くの千本通りに千本出水(でみず)の地名があるように、付近は鴨川や北野天満宮わきを流れる紙屋川などの伏流水が湧き出す土地柄だった。梅雨ノ井は入梅のころ石組みの井桁(いげた)の上から水があふれ出たことに由来するという。
 井戸の形状や水量など井戸の資料はほとんどない。あくまでも推測だが、深さ2、3㍍程度の浅井戸で湧水だった。井戸の底に自然石を敷き詰め、内壁に石積みをして土砂崩落を防いだ。水は木桶などでくみ上げた。梅雨や長雨などで水量が多い時季は、石組みの井桁から水があふれたとみている。
 湧水は「金名水」「銀名水」とも呼ばれ、室町時代ごろ、一帯は造り酒屋が集中していたという。秀吉も茶の湯に用いたといわれる。荒地の一画に別の井戸もあり、井桁だけが残っていた。1893(明治26)年に祇園の八坂神社を勧請(かんじょう)して八雲神社を設けた経緯がある。別の井戸は八雲神社の井戸かもしれない。

八雲神社の井戸跡とみられる古井戸跡

 たまたま居合わせた住民の高齢男性から荒地となったいきさつを聴いた。「約30年ほど前だったかなあ。ここらの土地を持つ大家が突然転居したと思ったら、自らの家を取り壊した。何を建てるか知りませんが、地上げ屋が入ったんです。大家の持つ500坪(1650平方㍍)の土地が地上げの対象でした」
 「立ち退きを求められて引っ越した人もいて、取り壊した家もあるし、そのまま荒れ放題に放置した家もある。立ち退き訴訟を起こされたが、土地の借主は借地権を盾に抵抗。訴訟はいまだに続いています。周辺の家屋は地上げの対象地になっています」と続けた。
「戦後に井戸の石組みが崩れた。私ら子どものころはガッチャンという手押しポンプ(ガチャポン)を取り付けた井戸として、近所の人たちはみな長らく、この水を利用した」と話した。

荒れ地には工事用フェンスが設けられていた

 地上げされた土地は工事現場用のブロックフェンスを設けて囲いがしてあった。地上げが始まったのは1990年ごろ。ドタバタが収まらず、もう23年間も放置されてきた。警察を含む公権力は「民事不介入」の不文律、大原則がある。民事事案のいざこざには一切介入しないという対応だ。
 対応にてこずり、手をこまねいている間に事態はなおさらこじれてしまう。時が解決するのは時機、タイミングなどきっかけを必要とする。時機がこなければ、ずっとそのまま放置ではあまりに知恵が無さすぎる。
 開発する側は開発地に文化財がある場合の対応や開発規制などについて行政側に相談することが多い。恐らく地上げする側も地上げして開発する際の規制などを行政サイドに相談した可能性がある。その時、行政はどう対応したのか。それにしても20年間以上にわたって、京都の中心市街地が荒れ放題のままでは「京都の恥部」としか言いようがなく、「市政はどうなっているのか」という批判があるのもうなずける。
 水神の祟(たた)りは怖い。地上げに動いた人たちは井戸を撤去しようにも、撤去できなかった。撤去した場合の「祟(たた)り」を恐れたかもしれない。地上げがスムーズにいかなかったのも、井戸の祟りかもしれないと思った。

地上げで立ち退いた後、空き家となった廃屋

 歴史遺産も環境も人の労働と英知の積み重ねの結果としてある。資本は利潤を追求するうえで、かつての歴史遺産も環境も視野の外にあった。むしろ余計な出費を強いられかねない厄介者だった。せっかく地上げしても埋蔵文化財の調査がある。記録保存ならまだましだが、現場保存となると、行政に安い地代で買い上げられて計画した区画が狭くなるなど開発する側にとって大きなマイナスとなる。

梅雨の井跡の案内板

 歴史遺産や環境が利潤を産むと人々が認識するようになったのは、やっと20世紀後半になってからだった。梅雨の井という歴史遺産が土地コロガシという単純に転売の利を追う地上げの犠牲になるのは惜しまれる。梅雨の井の跡を見つめながら、歴史遺産が観光収入などの利潤を産むことを、歴史遺産の多い観光地の京都はもっと学ぶべきだと思った。
 立ち退きを求められた住民たちは「聚楽第の遺蹟梅雨の井と住環境を守る会」を結成し、唐突な立ち退き要求に対抗した。守る会の会報の一部を見せてもらった。古文書を引用しながら梅雨の井の形状などを示して平成2年(1990年)12月の京都市議会で「遺蹟復元の請願」が採択されたことを示した平成4年7月の文書があった。
「梅雨の井。昔、聚楽御城有し時、太閤秀吉公御茶の水給ふ、井の深さ一丈余、四石を組みたる井筒あり、高さ二尺三寸、四方各三尺五寸あり。梅雨の入りより水、井筒の上へ越して外へ流れわたる。―――平成2年1月の地上げにより、―――遺蹟復元の請願書は市議会で採択(平成2年12月15日)私たちは文化と歴史の町、京都で暮らしに息づく史跡を守り復元させ生活を守ることを宣言する」
 これによると、井戸の内部は円形でも、地表に出ている部分は、円形の井筒ではなく四角い形の井桁だった。この記述からすると、深さは3㍍ぐらい。井桁の高さは約65㌢、四方の一辺は約95㌢だった。
  梅雨の井は江戸時代の1788(天明8)年、洛中の大半が焼失する「天明の大火」で埋没。その後、復活したものの第二次世界大戦後の1950(昭和25)年、井戸の内部の石組み、積み石が崩落して埋もれ、井桁も壊れてしまったという。
 聚楽第は秀吉の城郭様の屋敷として平安京大内裏旧跡(内野)に設けられた。東西600㍍、南北700㍍の広さだったといわれるが正確な範囲は不明。北は元誓願寺通り、東は堀川通り、南は押小路通り、西は千本通りに囲まれた区域とみられている。幅30㍍ほどの堀がめぐらされ、堀の外に配置された武家屋敷がかつてあったことは黒門町など町名に名残をとどめている。

秀次の家族らが処刑された鴨川の三条河原跡にある瑞泉寺

 秀吉は1590(天正18)年、小田原(神奈川県)の北条氏を攻略して天下を統一。1591(天正19)年、甥(おい)にあたる実姉の子ども、秀次(ひでつぐ)を関白に就かせ聚楽第を譲った。ところが、側室の茶々(淀)が1593(文禄2)年に秀頼を産むと、秀次を謀反の疑いで高野山に追放して切腹命令を出し、1595(文禄4))年に自害させ、幼子を含めた秀次一族を鴨川の三条河原で大量処刑した。
 聚楽第も1595(文禄4)年に取り壊した。1587(天正15)年の造営完成だから、わずか8年間だけで取り潰しの運命となった。西本願寺にある飛雲閣(ひうんかく,下京区門前町)や,大徳寺唐門(北区紫野大徳寺町)は聚楽第の遺構と伝えられている。

100赤山禅院「井戸水と修行の滝」


手水舎の水は井戸水だった

 山門を入ってすぐ右手に手水舎がある。木の柄杓(ひしゃく)を満杯にして水をすべて飲んでいたら、「飲めません。井戸水だから腹痛を起こすかもしれません」と注意された。上手い水だった。腹痛は起きなかった。

不動明王を祀った水ごり場

 不動明王を祀った修験の滝打たれ、水垢離(みずごり)の場所があった。2つの筧(かけい)から普段は水が流れ落ちているという。赤山の森は混交林の樹木が茂り、水神信仰が息づく緑色濃い森だった。森が育んだ清い水で身を清める潔斎をした。神の水が身も心も清くした。

不動明王堂。この奥に水垢離場がある

 赤山禅院(せきざんぜんいん)は東山36峰の第3峰・赤山(せきざん、標高196㍍)の西麓(せいろく)にある。境内には鳥居,、神猿など神社の様式が残り、神仏習合が色濃く残る寺だ。
 

境内にある金神社

 寺伝によると天台宗総本山・比叡山延暦寺に属する赤山禅院は京都の表鬼門に位置し、方除けの皇城鎮護として祀った。天台修験道の総本山。

赤山禅院の入り口にある鳥居

 円仁(第3世天台座主・慈覚大師)が、遣唐使として唐(中国)に渡り、帰路「航路平穏」を願った唐五山の1つ、赤山大明神(陰陽道の祖神・泰山府君)に感謝して勧請した。

赤山禅院の本尊・赤山大明神を祀る赤山大明神の拝殿

 「ぜんそく封じのへちま加持」や最古の「都七福神」(福禄寿)、「千日回峰行」の800日目にあたる「赤山苦行」の寺として知られている。 一年の中で「申の日」の5日に詣でると、吉運があると言われ、商売繁盛を願って多くの人が参詣する。

弁財天堂の裏手にある沢

 帰国した円仁は、赤山禅院を建ててとの遺言を残して死没。弟子の安慧(あんね、第四世天台座主)たちが888(仁和8)年に天台宗の鎮守神として赤山明神を勧請し「赤山禅院」を建立した。

101詩仙堂「膏肓泉」



水神信仰が生きる膏肓水の井戸

 膏肓水(こうこうすい)の井戸は竈(かまど)がある部屋のそばにあった。膏肓水は仏に供える「閼伽水」だった。仏に供える水は閼伽水でなくてはならないという水神信仰がここにはあった。

水屋形に水をくみ上げる滑車がある膏肓水の井戸

 井戸屋形の上部に滑車があり、滑車を使ってくみ上げる。水は毎朝、仏様に供えるのと清掃などに使い、飲用していない。「江戸時代に詩仙堂が造られた当時の井戸で、かなり深く掘ってある。井戸そばの蹲踞(つくばい)の水は水道水。滝や庭の池の水は山水です」と説明してくれた。

膏肓水の井戸そばにある竈のある土間

 膏肓水は、山の森が養った地下水。水と一緒に漢方薬を服用すれば薬効著しいというので名付けられた。明治時代生まれの中には仏様に供えた水を毎朝寝起きに「体に良いから」と飲むことを日常としている人もいた。仏に供えた水も閼伽水だった。
 比叡山のふもと、正確には東山36峰の第6峰・一乗寺山(標高272㍍)に連なる「狸穴(たぬきあな)山」のすそ野にある。入ってすぐ右手にアラカシが新緑を広げていた。カシ類など常緑広葉樹とクヌギなどの落葉広葉樹、スギなどの針葉樹が混じった混交林の緑濃い森だ。

庭にある小さい滝「洗蒙瀑」

 何度も訪れ、いつも部屋から庭を眺めるだけでそれほどの庭ではないと思っていたが、隅から隅まで歩いてみると、どうしてなかなか奥深い庭、建物だった。備え付けのサンダルを履いて庭に降りて歩いた。詩仙の間から見える庭に洗蒙瀑(せんもうばく)と呼ぶ小さな滝があった。池の水を含めて、山肌から浸み出した水を利用した山水だという。

カエルが生息する詩仙の間そばの水場

 庭は傾斜地を利用して4段に分かれて造られていた。詩仙堂の正式名は、でこぼこした土地に建てた住居を意味する「凸凹窠(おうとつか)」。命名通りの造りだった。

ハナショウブの咲く池
池に流れ込む山水

 詩仙の間わきの水場でカエルが鳴いていた。2段目の庭に鯉を放流した池があった。池には山水が流れ込み、ハナショウブか咲いていた。クロアゲハとギンヤンマが飛び交って出迎えてくれた。三段目の庭の北側に観月用の「残月軒」があった。

残月軒」のある庭

 詩仙堂は、左京区にある曹洞宗の寺。本尊は珍しい馬郎婦(ばろうふ)観音。江戸時代初期の文人、石川丈山が1641(寛永18)年)に隠居のため、59歳の時に造った山荘跡で国指定史跡。
 丈山は三河武士だった。16歳で徳川家康に仕えた。兵法に優れ、家康の信頼が厚かったが1615(元和1)年の大坂夏の陣で、数々の戦火を潜り抜けた家康が堅く禁止していた功名心からの先陣争いの抜け駆けをしたために怒りを買い、謹慎蟄居(ちっきょ)となり徳川家から離れた。

3階建て「嘯月楼(しょうげつろう)」

 丈山は33歳で武士の身分を捨てた。文人として儒学者の林羅山らに朱子学を学び、59歳の時に詩仙堂を設けた。90歳で亡くなるまでここで生活した。後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は丈山寺となったが、詩仙堂の一般的な名称の方が有名。

詩仙堂入り口の山門は「小有洞(しょうゆうどう)

 凹凸窠の名称通り建物や庭は山の斜面を生かして造られている。入り口の山門は「小有洞(しょうゆうどう)、中門は「老梅関」、3階建の建物は「嘯月楼(しょうげつろう)」、坐禅堂は「十方明峰閣」と呼ぶ。仏間や詩仙の間など多くの部屋がある。嘯月楼と詩仙の間だけが丈山の建築で、他は後世に改築されたという。

中門の「老梅関」

 詩仙堂の由来は36詩仙の肖像を掲げた詩仙の間にちなんだ。36詩仙は日本の三十六歌仙にならい、中国の漢、晋、唐、宋の各時代から選出した。壁に掲げられている肖像は狩野探幽が描いた。肖像画の上にある隷書体の詩文は丈山自ら筆を執った。

散策路沿いの苔むした築山

 4段構成の庭園「百花塢(ひゃっかのう)」は詩仙の間そばにある池「流葉洦(りょうようはく)を含めて丈山自ら設計した。京都には丈山が手掛けた庭が幾つかあり、東本願寺の渉成園(しょうせいえん、下京区)もその1つよいう。(つづく)(一照)

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