20京都・街の湧水、地下水は共有財産

名店の井戸

 京都市内には和菓子店や生麩(なまふ)店、ウナギ料理店など民間店が、私財を投じてかつての名水を復活したり、新たに井戸をボーリングして地下水をくみ上げ、その水を地域住民に無料で開放して分け与えているところがある。手水場を備える寺社ならいざしらず、民間店が、だ。

「花遊小路」にあるウナギ料理店「江戸川」「ハレの水」

 無料開放について一部は店の営業時間限定という制約もあるが、店の敷地内なので致し方ない。大災害の発生時、上水道が使えなくなった場合には災害緊急用の井戸として広く開放される。地域住民にとって、災害時に頼れる水場があるというのは大きな救いで頼もしい限りだ。

和菓子店「伊勢源六」の「橘泉水」

災害時に頼れる水場

 平安京への遷都以来、都は疫病の流行や大地震などの自然災害にたびたび襲われてきた。だれよりも都の人々は命をつなぐ、きれいな水の大切さを学び取ってきた。民間店が井戸を掘って地域の共有財産としていることは、過去のにがい歴史から学んだ教訓が身に染みているからだろう。歴史の重さを感じる。

生麩の名店「麩嘉」の「新滋野井」

 古くから和菓子など商品の製造に井戸水を使っているという名店の伝統、誇りがあるのは確かだが、地下水を市民共有の財産として、地域住民に私的所有の井戸水を無料開放する潔さ、気風(きっぷ)の良さと公共感覚がなおさら輝いて清々しく、京都人、職人気質の矜持(きょうじ)を示していると思った。

71花遊小路・「江戸川」「ハレの水」

 四条通り繁華街の路地「花遊小路(かゆうこうじ)」飲食店街の中にあるウナギ料理店「江戸川」。店わきに井戸水「ハレの水」がある。蛇口をひねると井戸水が出る。水盤の上に1本おいてあった柄杓(ひしゃく)で水を飲んだ。やわらかく、なめらかなうまい水だった。

ウナギ料理店だからこそ良質の水

 江戸川は1904(明治37)年の創業。ウナギ料理店は比較的きれいな泥場の「ヌタ場」に生息することが多いウナギに泥を吐かせるため、篭(かご)の中に入れて流水で生かしておく。塩素を含んだ水道水ではなく、水質の良い地下水が不可欠だ。

手拭きの手ぬぐいまで用意された「ハレの水」

 きれいな井戸水でウナギをさばくまで生かしてあるということは、ウナギ料理店にとってウナギの商品価値を高め、うまいウナギを提供していることを顧客にアピールできる大きなポイント。ウナギ料理店として、この井戸水を使っているというだけで、良質のウナギを丁寧に扱っている証となり胸を張れる。
 井戸水は商店街名にちなんで「ハレの水」と呼ばれる。めでたく、けがれなく、命名も良い。江戸川だけでなく、他の飲食店も利用している。花遊小路は新京極寺町通りの少し東側の路地で、四条通りを挟んで向かいに八坂神社の御旅所がある。

「ハレの水」がある花遊小路

 花遊小路のいわれによると、花遊小路は、「四條道場」と呼ばれる時宗・金蓮寺(こんれんじ)の旧敷地内にある。 時宗の開祖・一遍(いっぺん)は各地を回る遊行(ゆぎょう)をして「南無阿弥陀仏」と書いた念仏の札を配る賦算(ふさん)を行った。花遊小路一帯も念仏札配りの場所だったとされている。

一遍が念仏札を配ったところ

 一遍はこのことから「遊行上人」と呼ばれ、盆踊りの原型とされる「踊り念仏」を各地で始めた。長い歴史を省くと、金蓮寺が鷹峰に移転した後、塔頭(たっちゅう)の梅林庵が残った。梅林庵跡に大正時代、「花遊軒」という精進料理屋が開業し、「花遊軒」にちなんで花遊小路が誕生。2013年に京都で最も小さな商店街「ハレの日、花遊小路」ができた。

72伊勢源六の「橘泉水」

 和菓子の名店「伊勢源六たちばなや」の「橘泉水(きっせんすい)」は、三条通りの堀川通りに近いところ、中京区橋東詰町にあった。三条通りとはいっても、三条商店会入り口の反対側。京都など古い都市特有の狭い間口の店舗なので、気がつかないでうっかり通り過ごしてしまいそうな場所にある。

「伊勢源六たちばなや」本店。右に「橘泉水」がある

 水場は店舗玄関の右手にある、蛇口からいつも水が出ている。江戸時代の1708(宝永5)年に初代、伊勢屋源六が和菓子の製造を始めた創業以来、「水は和菓子作り、特に餡(あん)は水が命」とずっとこの水を使い続けている。

橘泉水

良水にこだわりぬいた和菓子店

  井戸水は屋号「橘屋(たちばなや)」にちなんで「橘泉水(きっせんすい)」と名付けられた。水は京都微生物研究所の水質検査ですべての検査項目の基準をクリア。水場のわきに水質検査結果書が張り出してある。安心して飲める水だ。水をくめる時間帯は平日午前9時から午後6時まで。土曜日は午後4時までとなっている。

水質基準をすべてクリアの検査結果書

 「たちばなや」では、水以外にも素材にこだわり、品質の高い栗・黒豆・小豆を求めて京都府福知山市の夜久野町に1992年に菓子蔵「丹波栗蔵」を設けた。2008年には 夜久野高原「道の駅・農匠の郷やくの」内に「丹波菓子の里 やくの花あずき館」も設け、丹波産の大納言小豆や黒豆を100%使用した金つば作りを始めた。

73麩嘉の「新滋野井」

 生麩(なまふ)の名店「麩嘉」(ふうか、上京区東裏辻町)の「新滋野井」は店舗左の専用駐車場わきにあった。蛇口があり、だれでも水くみを利用できる。井戸のわきに「この水はそのままでの飲料は避けて下さい」という注意書きがあった。しかし、せっかく足を運んだのだから、生水を飲んでみた。口当たりがなめらかでやわらかく、うまい水だった。

「新滋野井」

 かつて、麩嘉から西に100㍍ほど離れた場所、上京区西洞院椹木(さわらぎ)町上ル辺りに名水「滋野井」があった。平安時代、公家の滋野貞主の屋敷にあった井戸とされ、滋野姓にちなんで滋野井と名付けられた。屋敷は後に公家の藤原公成が住んだ。
 屋敷はその後、蹴鞠(けまり)で知られる公家、藤原成通の別邸となった。平安京に遷都したころの御所は千本通りの方にあった。現在の場所に移ったのは鎌倉時代とされている。御所が移転したことで御所の西側は宮中勤めの人や貴族の屋敷があった。

「新滋野井」のある「麩嘉」

 井戸とは別に井桁は昭和時代初め、滋野屋敷跡の一部にある別の家に移された。井戸がどこにあったかは正確な場所は不明。京都市埋蔵文化財研究所の調査で、井桁は花崗岩を切り分けた一枚岩を4個組み合わせて造ってあった。地元有志が井桁の保存活動に取り組み、2018(平成30)年に「京都学びの街生き方探求館」の玄関ぎわに移設された。

「滋野井」いわれ書き

 この辺りは鴨川の伏流水が湧き出すところだった。西洞院地域には明治時代半ばまで西洞院川が流れ、水量が豊かだった。滋野家の屋敷跡に住んだ民家が井戸を利用してきたが1950年代に水が涸(か)れ、上水道の普及もあって井戸は埋められて、井桁だけが別の人が保存してきたという。

保存された滋野井の井桁

 井桁は上京区西洞院下立売下ルにある京都市の施設「京都学びの街 生き方探求館」の玄関ぎわに保存されている。同じような石組みの井桁は、吉田山にある吉田神社と東寺(教王護国寺)の別格本山・観智院の中庭、右京区宇多野の「福王子神社」にもあった。
 麩嘉は生麩の名店。江戸時代末期の慶応年間(18655~18688年)ごろ、大和屋嘉七が創業した。生麩の7割は水分とされ、水が命。麩嘉はこの水を使って生麩を製造している。生麩は長年、御所に納めてきたといわれている。

昭和51年にボーリングした記録の板書

地下60㍍の水

 1976(昭和51)年に先代の当主が私財を投じて名水の復活に挑みボーリング。地下60㍍で水脈を得た。かつての「滋野井」と同じ水脈ということから、「新滋野井」と命名した。(つづく)(一照)

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