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「さよーならまたいつか!」の考察メモ

かねてより好きだった米津玄師が主題歌を担当するということで、ドラマ「虎に翼」を参考にしつつ、「さよーならまたいつか!」を聴いて考えたことのメモを書いた。個人的な話をすると、朝ドラをまともに見るのは今回が初めて。今現在、テレビではまだ放送されていない話数の物語も収録されている「虎に翼」のノベライズ版を購入してちょこちょこ読みすすめてるところ。




で、さっそく本題↓


・ストリングスやピアノなどをつかったサウンドは晴れやかな春の朝っぽいイメージ。メロディも基本跳ねていてリズミカルなんだけど、一部どこかおっかないところがある。とくにAメロの「知らず知らず大人になった」「悲しみに暮れた」のあたりはかなり不穏な響きを孕んでいると思う。こういうキレイなものをあえて濁す感覚は米津っぽい。


1番

「見上げた先には燕が飛んでいた 気のない顔で」
「もしもわたしに翼があれば 願う度に悲しみに暮れた」

・このフレーズは、「虎に翼」という物語とあわせて考えると、「燕」とは寅子たち女性視点から見たときの「男性」というふうにイメージしやすい。社会から特権的な地位や利益を享受しているにもかかわらず、そのことに無自覚な男性たち。彼らは女性たちのように「気ままに飛べない」存在に対して目もくれず、自由を謳歌している。


「口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く」

・ドラマでオープニングが初解禁されたとき、もっとも多くの人の耳を惹いたのはサビのこのフレーズだったはず。「血」「唾」といった、爽やかさとはかけ離れた単語をつかい、さらにはKICK BACKを想起させるようながなり声。「朝ドラ」主題歌には一見似つかわしくないようにも思える。

・この歌詞を読みとくならば、怒りと悔しさがないまぜになったような強い感情が体内で爆発しているように解釈できる。その怒りの矛先は、地上の存在に対して気もくれない燕に対してのものなのか、あるいは理不尽な社会そのものに対してなのかはわからない。ここでミソなのが、燕に対して直接的に怒りをぶつけたり、攻撃したりするわけではないところだ。空に向かって唾を吐いたところで、燕に当たるはずもない。客観的に見れば、下品で無意味な行動のように思えるだろう。しかし、そのような強い怒りの感情を持つことじたいを否定しているわけではない。むしろ肯定しているとすら思う。その理由は後述する。



2番

「しぐるるやしぐるる町へ歩み入る そこかしこで袖触れる」

・1番が終わると、まるで場面転換したかのような間奏をはさんで2番がはじまるのだが、いきなり聞いたこともないような日本語が耳に飛びこんでくるので面食らう。「シグルルヤシグ、ル〜ルマチヘアユ、ミイル〜」とか、そんな音の切り方ありかよ!?とか思ってビックリする。かつて、同じ朝ドラの主題歌を担当した星野源が「アイデア」という曲で、1番と2番でまったく印象の異なる構成をとっていたことを思い出した。

・すでに多くの人が指摘しているが、この歌詞は種田山頭火の俳句から引用している。「さよーならまたいつか!」という曲をおもしろいと感じるのは、1番の歌詞を「100年先も憶えてるかな」というフレーズで締めたあと、つづく2番では時間軸が「100年先」ではなく、「100年前」に飛ぶところだ。「しぐるるやしぐるる町へ歩み入る」というフレーズだけでなく、全体的に古めかしい言葉づかいが多用されていることから、2番の歌詞は「100年前の物語」だと読んでいいと思う。「虎に翼」の主人公のモデルになった人物・三淵嘉子だけでなく、種田山頭火も今からおよそ100年前に活躍した人物である。


「目上げた先には何も居なかった ああ居なかった」

・2番になって急に100年前に飛ばされたかと思えば、さらに1番の歌詞では燕がいたはずの「見上げた先」には「何も居ない」という意外な展開がつづく。ここのフレーズの解釈はむずかしいところだが、「100年前は燕も飛ぶことができないほどさらに抑圧された時代だった」というふうに個人的に思っている。というのも、2番ではがなり声のパートが増え、歌詞は「殴りつける」「地獄」「繋がれていた縄」などといった厳しいワードが多用されており、1番にくらべるとさらにシリアス度や暴力性が高まっているように見えるからだ。


「人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る」

・この曲のおもしろいと思うポイント2つめ。「地獄」という単語は「虎に翼」でも使われていて、主人公の寅子は時代の逆風にさらされながらも法曹界という地獄をつき進んでいく物語だ。ドラマとのわかりやすいリンクとしてとらえることができるだろう。それだけでなく、1番の冒頭の歌詞「どこから春が巡り来るのか 知らず知らず大人になった」というフレーズともつながっている。つまり、1番の歌詞でいう「春」とは、100年前の先人が「地獄」でたたかい、勝ちとったからこそ得られたものだという言及になっている。

・「知らず知らず」のうちに私たちが享受してしまいがちな権利や利益。もはやあたり前のことのように思えるけども、それは偉大な先人たちのつみ重ねのおかげで「今」があるのだと。そもそも「虎に翼」というドラマじたいが、現在を生きる視聴者が100年前の日本で起きた物語に目を向けることで、当時戦った人々に対して感謝と賛辞の念をたたえるような構造をとっている。知られざる過去の偉業に目を向けようという、そこに対する解釈でもある。

・もう一つ深読みすると、1番の歌詞で「燕」が空を飛ぶことができる世の中になっていたのは、過去にそういった地獄でたたかった人々が存在したからだとも解釈できる。だからこそ、「気儘に飛べ どこまでもゆけ」と肯定する。それは、勝ちとった「自由」に対する肯定でもあり、過去にたたかった先人に対する肯定にもつながるからだ。


「誰かを愛したくて でも痛くて いつしか雨霰」

・ここは、1番の歌詞の「誰かと恋に落ちて また砕けて やがて離れ離れ」とのリンクととれる。時代や境遇はちがい、表現も異なりはするものの、似たような苦しみや願いを抱えた人々が100年前にも存在したのだという言及。はるか昔にも同じ悩みをもった人がいたのだと思えば、孤独から解放されてどこか励まされたような感覚になれるのは自分だけだろうか。


「繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる」

・「噛みちぎる」の部分は、1番の歌詞「口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く」と同じで、両方ともあくまで自分の「口の中」「体内」で起こしたアクションであることがどこか示唆的。そもそも、この物語の主人公が「虎」であると仮定すると、怒りや苦しみを噛み殺した結果、口の中で牙が刺さって血が滲んだというふうにも思える。


「100年先のあなたに会いたい 消え失せるなよ さよーならまたいつか!」

・「100年前」のだれかが、その「100年後」である今を生きるわたしたちに対して呼びかけている。「消え失せるなよ」とは、そのまま「生きるのをやめるなよ」というストレートなエールのようにも思える。そして、この「あなたに会いたい」という願いを叶えるためには、現在に生きる人は過去をふりかえる必要がある。1番の歌詞「100年先も 憶えてるかな」にもつうずるが、わたしたちは、100年前に起こったことをおろそかにしてはならない。

・過去の先人たちとその偉業に対して敬意を払い、その一方で現在が過去になる未来に思いを馳せる。先人から受けとったバトンを絶やさずに未来につなげる。その営みこそが人類のあるべき姿、歴史のつみ重ね方というふうに感じられる。はからずもこの曲は一種のループ構造をとっており、1番と2番の歌詞の関係性というのはなにも「今と100年前」だけでなく、ほかの様々な時代にも当てはめて考えることができる。100年前からさらにさかのぼった100年前であったり、あるいは100年後とそのさらに100年後との関係性ともとれる。


・苦しめられている「今」も、未来のためにたたかう。そして、いつしか100年先のだれかがそうした自分の姿を発見してくれる。そういう時間感覚をもつことができれば、未来のために今できること、やるべきことはなんだろう…と考えられるようになる気がする。



ラスサビ

「今恋に落ちて また砕けて 離れ離れ
口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
今羽を広げ 気儘に飛べ どこまでもゆけ」

・1番のフレーズの頭に「今」がくっついて再度くり返される。これは、この曲で「100年前」「100年後」などと時間軸があちこち飛びまわり、ある意味すべての時代が相対化されたことから時間を「今」に固定しようとしたのだと解釈している。どういうことかというと、100年前にも現在にもその100年後にも、それぞれ「今」という瞬間があったこと。時代や境遇はちがえど、同じような悩みをかかえ、苦しんでいる「今」があったこと。時間の壁をとびこえた彼らの声が重なるように、米津のファルセットも何重に重なり、ひとつの願いや祈りとなったふうに聴こえる。


「生まれた日からわたしでいたんだ 知らなかっただろ
さよーならまたいつか!」

・最後にこのフレーズをぶつけてくるのがあまりにもすごい。時代や環境に左右されず、「虎」であろうが、「燕」であろうが、そうでなかろうが、だれしもがこの世界に誕生した時点で祝福されているし、生まれもった姿で肯定されるべきなのだと。「知らなかっただろ」「さよーならまたいつか!」とつながるのが、清々しくてまたいい。「虎」や「燕」などを主役にした物語を描き、最後の締めでそれらだけでなく、そこからこぼれ落ちた人々も包括する構成。

・この曲の歌詞につかわれている言葉は、いうなれば風流というか美しい日本語っぽいのだけど、その一方で「唾を吐く」「知らねえけれど」「消え失せるなよ」など、乱暴で崩したような言葉づかいも混在している。そのことに励まされた人も少なくないはずだ。

・この曲で歌われている倫理観や政治性はきわめて「正しい」。「虎に翼」というドラマも、正しさに向かっていく。だが、人は正しくあろうとしても、なかなかそうあることができない。そして、正しくあれないことに苦しむことがある。この曲は、「正しい」曲なんだけど、一方で「正しくあれない」ことすら包みこんで肯定している曲でもあると思う。矛盾しているが。

・「虎に翼」というドラマは、ある種「女vs男」の物語であって、ときにあまりにもわかりやすい勧善懲悪的な構図をとってしまう部分があるのだが、そういった作品の主題歌を担当することになった米津玄師がこういう形で応答してくるのは目から鱗だった。このドラマでは男性はある意味「敵」として登場するのだけど、その男性の視点をもちつつ作品と適切な形をとって寄りそうというのはかなりむずかしいミッションだったはずだ。今回のタイアップだけでなく、米津玄師の主題歌仕事は毎度背負わされているものがデカすぎる。(というか、そういうハードルとか制約を自ら課しているような気すらするが)その重圧のわりにはちゃんと打ち返してくるからすごいなと思う。



MVの考察↓

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