見出し画像

離婚道#33 第4章「家出のあと」

第4章 離婚へ

家出のあと

 Xデーまでの約1カ月は、気がパンパンに張っていた。途中、緊張感が頂点に達し、パニックでひとり相撲もとったが、その後は目的を達することだけを考え、やるべきことを黙々とやった。
 玄関を出て、スーツケースを引っ張ってタクシーに乗るまでの間に、愛着のある家を去る時の感慨ともお別れした。
 そうして西日暮里の新居にたどり着いた時、思いがけない感情が溢れた。
 どっと悲しみが襲ってきたのだ。
 21平米のワンルーム。細長い間取りが、より侘しく感じさせた。
 備え付けの合成皮革の茶色いソファに腰かけると、テレビまでの視聴距離はわずか1メートルという部屋の幅。テレビの向こうの腰高窓には、隣接する建物のアンテナが映り、魚の骨のようだった。
 どうしようもなく惨めな気持ちになり、涙が出た。
 ――努力は無意味だった・・・・・。
 結婚生活が鮮明に思い起こされた。
 新聞記者のキャリアを捨てて、雪之丞と結婚し、舞台革命をサポートしようとしたこと。そのために17年間、自分の個性を捨て、言いたいことも言わず、会いたい人にも会わず、やりたいこともやらなかったこと。それなのに、雪之丞は私のあらゆる素行を疑い、汚らわしいものとして扱い、それに対して私自身が何年間も全力で反論反証してきたこと。
 怒りとも後悔とも絶望ともつかない激しい感情が私を支配した。
 私は自分のかけがえのない人生を空費してしまったのだろうか・・・・・。自分は人生の失敗者だと思うしかなかった。
 思えば、水戸の新人記者時代でも28平米の1Kだったから、これほど狭い部屋で生活するのは初めてだ。無職で保証人も立てられない身の上だから、仕方ない。
 だが、ついさっきまで生活していた東北沢のマンションは贅沢すぎた。
 住んでいた家は150平米の3LDK、家賃60万円。法人契約で家賃の7割は雪花堂持ちだったが、もう、あんな広い家には二度と住めないだろう。
 思えば、広い家も私には無駄だったのだ。
 私は家族や知人を誰ひとり自宅に招いたことはない。親に雪之丞のことを怒りに任せてしゃべっても、下の階に人気女優が住んでいることはもちろん、住居を含めた日常生活のことは言ったことがなかった。
 雪之丞にあれこれ疑われて実家に逃げ帰った時、父に「お前、どんなところに住んでんだ?」と訊かれた。
「築40年近くの古い賃貸マンション」
「家賃30万くらいか?」
「・・・・・うん、そんな感じ」
たけぇな」
 この時も私は父に本当のことは言えなかった。私は17年間、隠れてコソコソと広い家に住んでいたようなものだった。
 なぜなら私は、贅沢がしたくて年の離れた雪之丞と結婚したと勘違いされたくなかった。贅沢を手放したくないから離婚できないと勘違いされたくもなかった。私は、雪之丞の才能にかけて仕事をやめて結婚した。華美な暮らしは雪之丞の才能の付属に過ぎなかったからだ。
 それなのに、家出したいま、東北沢の家と西日暮里の部屋の大幅な落差は、私の気持ちをどん底にした。
 実は私は、あの贅沢な暮らしを手放したくなかったのではないか・・・・・と考えると、自分がいかにも浅ましく、どうしようもなく嫌になった。
 そしてもうひとつ、別のしみったれた感情も抑えきれない。
 雪之丞が藤田奈緒のために借りてやったマンションとの落差。
 雪之丞より40歳も若い、昨日今日の若い女が「代々木上原の42平米、17万円」という恵まれた物件に住み、17年間、雪之丞のために働いた私が「西日暮里の21平米、9万9000円」の暗い部屋にいる。
 雪之丞が、キャリアを捨てて雪之丞に尽くしている私に興味をなくし、幽霊みたいな見た目の対人恐怖症の若い女に夢中になっている現実は、どうしても納得できない。やっぱり私は、20歳も若い女に負けたことが悔しかった。・・・・・ずっと考えないようにしてきた感情がよみがえり、敗北感で身動きがとれない。
「トンボの父ちゃん、力くれ」――
 暗い部屋の中で、声を絞り出してみた。
 私は、ここ西日暮里のこの部屋からもう一度出発する。それが自分のためなのだ――と言い聞かせた。
 どうしようもなく虚しいが、納得できる離婚を達成するまで、ここで踏ん張るしかないのだ。
 ――これでいい。私は人生を再びここから始めるんだ。
 なんとか歯を食いしばって、感情の整理をし、久郷弁護士には電話でX-ミッション完了の報告をした。
「まどかさん、おつかれさま。今日、裁判所に、離婚と婚姻費用分担の調停を申し立てましたよ。吉良氏に連絡がいくのは3週間程度後になります」
「ありがとうございます。明後日は打ち合わせ、よろしくお願いします」
 弁護士との短い会話だったが、雪之丞の呼び方が「ご主人」から「吉良氏」に変わっていた。もう雪之丞は夫じゃない。そのことを自覚した。
 夜、母親からは「大丈夫? 無事、家出した?」と電話があった。
「うん。先生は今日は弟子と食事だから夜遅くなるけど、帰ってきて置手紙に驚くだろうね。明日、雪花堂から電話があるかもしれないけど、出る必要ないからね。知らない番号の電話にも出る必要はないよ」
 母は「わかった。でももし先生が乗り込んできたら、お母さん、言いたいことを言ってやるからね」と威勢がよかった。
「仏壇に手を合わせて、お父さんがまどかを助けてくれるようにお願いしておいてね。あと、76歳、おめでとう。なんだか、ごめんね」と電話を切った。
 今年は母の誕生日を私の人生の転換点にしてしまったが、1年後は晴れやかな気分で喜寿を祝ってあげたいものだ。
 
 家出の翌日、案の定、雪之丞は大騒ぎした。
 私の携帯電話に雪花堂からの着信が続いた。
 実家にも何度も着信があったようだ。母によれば、知らない携帯番号からかかってきたと思ったら、留守電に、弟子の富田和子から「まどかさん、これを聞いたら、すぐに雪花堂にかけ直してください」とのメッセージが入っていたという。雪之丞は弟子にまで電話をさせていた。
 雪之丞は携帯電話を持たず、パソコンも触らない。仕事で使うパソコンメールは日頃、弟子の富田に打たせている。
 雪花堂のアドレスから私宛に、雪之丞からのパソコンメールが届いた。
「まどかの荷物がそのままなので、自分で整理処理して下さい。鍵が置いてありましたが、整理の為に鍵を渡したいのでどのような形で渡せばいいかメール下さい。弁護士に相談とありましたが、私は多忙で余計な時間を取られたくないので、私に直接要求を言ってください。私とまどかは縁を切らない形で、話し合いで終わった方がいいと思います」
 という内容だった。
 DV被害を受けている妻が夫から避難しても、夫の元に戻るケースがよくあるという。どうして被害妻が加害夫のところに戻るのか、不思議に思う人も多いだろう。かつては私もそう思っていた。しかし、同様のことが自分の身に降りかかった時、理解できるような気がした。
「鍵を渡したい」「縁を切らない形で終わった方がいい」――雪之丞のメールの文面からは、私を引き戻そうとしている必死さが伝わる。あれほど自尊心の高い男が、このような文章を弟子の富田に打たせている。そう思うと、雪之丞が少し可哀そうに感じた。しかし、ここは心を強く持たないと、元の木阿弥だ。せっかく家を出てきた意味がない。
 その後も雪之丞は何度も私の携帯に電話をしてきた。
「塩はどこだ」
「砂糖はどこだ」
「車を売りたいが、契約書がない」……
 携帯の留守電に、雪之丞の声で次々メッセージが入っていた。もちろん、電話に出ることはしなかった。だが、日常生活で困っている雪之丞に一定の対応をしようとは思っていた。
 家出2日目の午後、「上野さくら法律事務所」で今後の方針が話し合われた。
 雪之丞への対応について、久郷弁護士は「吉良氏はまどかさんを連れ戻そうと思っていますから、会ってはダメですよ。電話で話してもダメです」という。
「それはわかっています。絶対に家に戻ったりしませんが、調停の前に、吉良にチャンスをあげたいと思うんです」
 実際、雪之丞は毎日本当に忙しく働いていて、調停や裁判をする時間もないだろう。またメールには「直接要求を言ってください」とあるが、たしかに、「一銭もやらない」のひと言で押し切られていたため、私は一度も自分の要求を言ったことがなかった。
「それでなんですが、吉良宛に返信メール案を書いてみたのですが、いかがでしょうか?」
 私は久郷弁護士に書いてきた文案を見せた。
 
《先生が私の要求をきいてくれるなら、協議の場を持ちたいと思います。納得する形で終われば、離婚調停の申請を取り下げます。
 これまでのように密室で二人だけで話せば、窃盗した、してないの繰り返しで不毛な議論になってしまうので、協議は第三者を立てた方がいいと思います。
 代理人の久郷桜子弁護士から先生に連絡してもらいます。よろしくお願いします》
 
 連絡事項として、塩や砂糖の場所も付記した。
 久郷郷弁護士は返信案を見て、少し考えてから口を開いた。
「まどかさんの気が済むなら、私が入って協議の提案してみましょう。この文章で問題ないので、吉良氏に出していいと思います。ただあらかじめ言っておきますけど、協議で決まるという期待は持たない方がいいですよ」
「わかりました。ありがとうございます。それでですね、吉良と協議ということになった時、こちらは私と久郷先生ですよね。女ふたりというのが、ちょっと心配なんです。もちろん、久郷先生は吉良と十分に戦える才覚がおありですが、吉良は威圧感がものすごいですし、今どき珍しいほど強烈な男尊女卑の考え方があって女性を馬鹿にしているので、できればどなたか男性の用心棒がいると・・・・・」
「あ、それ、私も伺おうと思ってたんですけど、同じ委員会の男の後輩弁護士をチームに入れていいですか? たくさん送っていただいた雪花堂の決算書などを読み込んだりするのに、数字に強い弁護士を入れたいなと思っていたんですよ。着手金は契約時にいただいているので、弁護士が一人増えてもまどかさんの負担はありませんので」
「是非、お願いします!」
「ただ、そいつ小島正太郎っていうんですけど、用心棒というにはちょっと頼りないんですが」
「いいんです。たとえ見かけ倒しの用心棒でも、協議の場に男性が同席すれば、吉良も社会的な顔すると思いますから」
 ・・・・・というわけで、「数字に強い弁護士を入れて弁護団を強化したい」という久郷弁護士の提案と「男性の用心棒を入れたい」という私の要望がかみ合い、私の代理人に小島正太郎弁護士が加わった。
 翌日、私からのメールに雪之丞からすぐに返信が届いた。「弁護士を入れる前にまどかとふたりで話し合いたい」という。
 その後も何度もメールが届き、雪之丞が私に直接会って丸め込もうとしている魂胆が見え見えだと判断し、私はやりとりを打ち切った。
 それでも雪之丞から続々とメールが続いた。
「お前はヤクザの仲間だ」「お前は俺を殺そうとした犯人だ」・・・・・メール文は次第に私への嫌がらせとなっていったのである。
 常軌を逸した内容で、夫だった雪之丞の異常性にはゾッとするばかり。文章を打つ富田にも同情したが、読むのもうんざりだった。
 そんな時にも久郷弁護士は明るい表情で言う。
「これは使えるメールですよ。裁判で吉良氏のモラハラを主張する際に使いましょう!」
 おかげで、雪之丞の理不尽な暴言に落ち込むのも最小限で済んだのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?