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離婚道#39 第5章「弁護士の居酒屋説法」

第5章 離婚裁判へ

弁護士の居酒屋説法

「先生、こうして美味しいお酒が飲めるのも、婚費3万円アップのおかげです。ありがとうございました!」
「イェ~イ、カンパ~イ!」
 この「先生」は、雪之丞ではなく久郷弁護士である。
 場所は、上野の繁華街から路地へ入り、根津の方へ向かう途中にある割烹「はちじょう」。久郷弁護士の行きつけ店のひとつだ。
 5人座れるカウンターとテーブル席1つという小ぢんまりした店で、昼は酒を出す蕎麦屋、夜は小料理屋。丁寧な手仕事をした小皿料理がいちいち美味しく、香り高い手打ち蕎麦で〆る。食いしん坊の酒飲みにはたまらない店である。
 調停が終わり、別居日から9カ月分の婚費が雪之丞から入金された。「軽く打ち上げをしませんか」と久郷弁護士を誘い、時勢柄、ふたりで何度か訪れている近場の店になった。
 というのも、時に令和2(2020)年4月10日。その3日前の7日、新型コロナウィルスの蔓延により7都府県に「緊急事態宣言」が出されたというタイミングである。まだ飲食店の休業要請が出る前で、「ステイホーム」が呼びかけられる前とはいえ、街に出る人は急速に少なくなり、人気店の「はちじょう」でも我々の貸し切り状態だった。
 私は麦焼酎水割り、久郷弁護士は芋焼酎ロックにチャイサーとしてビールを飲んでいる。
 お通しは「ホタルイカと分葱わけぎのぬた」。辛子酢味噌の塩梅がちょうどいい。
 次に出てきた「白エビの天ぷら」を、久郷弁護士は「大きい白エビだね。パリパリで甘い」と、100点満点の笑顔で焼酎を一口、二口、酒がすすんでいる。
「先生、『親の意見は後薬』といいますが、その通りですねぇ」
「そのことわざ、『親の意見』の前に『冷や酒と』がつくよ。冷や酒が後からきき始めるように、親の意見も後になってありがたみが分かるってやつね」
「そうです。結婚を反対していた母の妙子は、雪之丞を一目見て『うさん臭い』って大騒ぎしていましたから」
「そりゃ、そうだろうね。吉良の印象は私も最悪だったしね」
「そうですか。・・・・・でもね、先生、私はどう考えても吉良と結婚することになっていたと思うんです」
「わかる! 結婚することになっていた、というのはよくわかる。私だって・・・・・」
 話の途中に「信州ぎたろう軍鶏しゃもの焼き鳥」が出てきて、ふたりして「わぁー」と声をあげた。「信州ぎたろう軍鶏」は、グルメ漫画『美味しんぼ』に登場した軍鶏として知られ、ここ「はちじょう」では炭火焼きで出してくれる。
 久郷弁護士は芋焼酎をおかわりし、次のチェイサーはレモンサワー。焼き鳥を頬張りながら、後薬の話を続けた。
「私だって、母から結婚を猛反対されたけど、どう考えたって、石川と結婚することになっていたと思う。実際、司法試験に合格した時はもう40歳目前で、結婚に焦ってたしね。結婚は不可抗力というべき運命の歯車であって、避けられなかったと思う」
 石川とは、久郷弁護士の離婚協議中の夫である。弁護士同士の夫婦は、事実婚で法的には入籍していない。
「だから親の意見は結果論であって、仕方ないよ。ただ問題は、離婚すると結論が出てからですよ」
「それです。先生は最初っから、『吉良雪之丞とは話し合いにならない。裁判の可能性が高い』って言ったじゃないですか。でも、私はむしろ裁判になるはずがないって思ってたんですよね」
「まどかさん、そう言ってた。調停申し立てた後に、吉良が話し合いで解決したいってメールしてきた時も、私は無駄だと言いましたけど、まどかさんの希望で協議の場を設けましたよ。おかげでほとんどの弁護士が知らない弁護士会館の裏道を全力疾走する破目になりましたけど」
「すみません。ところがあんな目にあっても、私、本当に調停では決まると思ったんです」
「婚姻中にひどい目にあったうえに、別居後も裏切られているのに、それでも吉良に期待するって何なんだろうと思いましたよ。いや、さんざんひどい目にあってるのに、まだ夫に期待する人、結構多いんですよ。『今度こそ夫は改心してくれる』って。そういう人には『本当にダンナが改心すると思います? 今それができる人なら、もっと前に改心してましたよね?』とたたみかけると、全員『思わないです。ダンナは変わりません』と認めるんです。夫に期待して苦しんでいる人は、性善説的な感性と母性が強い人だと思う」
「だって、裁判になったら、吉良の妻に対する暴言や暴力、若い女に夢中になって生活の面倒をみていること、金庫に財産を保管している話とか雪花堂の経費で生活している話、恥ずかしい話が全部公になるわけじゃないですか。さすがに雪之丞も社会的立場がありますから、それはできないだろうと思っていました」
「言っておきますけど、まどかさんが一方的に吉良に配慮しているだけで、あちらはなんも考えてないですよ。まどかさんさ、精神性が高いのなんのって尊敬して結婚した相手かもしれないけどさ、私は吉良雪之丞っていうのは、かなりの俗物だと思ってるよ」
「先生、母の妙子とおんなじこと言う。『先生はまーちゃんが思っているより、ずっと俗人だとお母さんは思う。まーちゃん、先生を尊敬したり期待したり、バカなんじゃないの⁈』って。あ、妙子のいう『先生』っていうのは吉良のことなんですけどね」
「まったく妙子の言う通りだわ。いやぁ、私、妙子と会ったら、絶対ハグするわ。『まーちゃん、バカだね』って共感し合うわ」
 ぎたろう軍鶏の卵を使った「だし巻き卵」も「はちじょう」の名物である。しかも、出汁たっぷりの甘くない関西風と甘辛い関東風を選べる。
 久郷弁護士が注文した「関西風のだし巻き卵」が出てくるや、器に出汁がひたひた、ぷるんぷるんの卵焼きに、ふたりして再び「わぁ~」と盛り上がった。
 私は、久郷弁護士の「あちらはなんも考えていない」発言が気になり、その意味を訊いた。
「吉良はまどかさんに一銭もやりたくないし、まどかさんに意地悪したいだけ。人に見られて恥ずかしいとか、人からの評価が下がるなんて、全く考えてないですから」
「あのう・・・・・吉良は私をどう思ってると考えますか?」
 男女トラブル専門家の意見がききたい。ひとりで考えても答えが出ない疑問である。
「吉良は、まどかさんを追い出す結果になったことを後悔していると思うよ。そもそもまどかさんを自分の思うようにしたくて、新聞社を辞めさせ、親とも疎遠にさせたわけです。仕事がうまくいかないとか、世の中で評価されない不満もぜんぶ、まどかさんに当たり散らしていた。甘えですね。戻る場所がないまどかさんなら、どんなに当たっても出て行かないと高を括っていた。藤田奈緒のことは、まどかさんにバレて、バカにされているように感じ、余計にまどかさんに辛く当たった。離婚を迫ったのも、実は本気じゃないね」
 私は「うん、うん」とうなずきながら、弁護士の高説をきいていた。ふたりして、卵焼きをつまみながら。
「ところが、ボケだ、出て行けだと言っても出て行くはずのないまどかさんが、本当に出て行っちゃったから、相当焦ったと思いますよ。で、ヤツは勝手だから、裏切られたと感じた。心の底ではまどかさんのことが実は大好きだっただけに、その反動で憎くてたまらなくなった。だから別居後は盛んに嫌がらせみたいなメールがきたし、調停でも言いたい放題で調停委員を困らせたりする。裁判でもいろいろ言ってくると思いますよ。まともな弁護士なら書面に書かないけどね。だから、まどかさんへの嫌がらせが目的となった吉良は、社会的地位とか自分が人からどう思われるとか、全く考えてないということです」
「浮気の証拠として、基礎体温表なんか出してきますかね?」
「それはない。さすがに弁護士が『そんなの浮気の証拠になりませんよ』って言うわ」
「出てきたら、面白いですけどね」
「それこそ、『いただきました』だね。いつか、おもしろ裁判エピソードを全部小説にして書けばいいよ」
 狭い部屋で、ひとりで離婚のことを考えていると、とんでもなく落ち込む。
 調停で私の浮気や窃盗を事実のように述べた挙句、私から慰謝料がほしいと訴えた雪之丞は、どんな証拠を作り出して私を不貞、犯罪者扱いするのだろうか。雪之丞の裁判主張を想像するだけで不安が募っていく。
 こうして居酒屋で離婚弁護士と過ごす時間は楽しい。と当時に、過去を後悔し、先を悲観してどうにかなりそうな私にとって、最高の精神安定剤であった。

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