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離婚道#19 第3章「それでもワタシはやってない」

第3章 離婚前

それでもワタシはやってない

 悪夢は続いた。
 雪之丞から毎日のように追及され、雪之丞は私に自白を迫った。
 感情的な反論は逆効果だったし、相手にしないで話題を変えることも許されなかった。私がどんなに理論的に説明しても、雪之丞は「まどかは本当のことを言っていない」と取り合わない。
 雪之丞は私と別れたいがために、事実無根の浮気をでっちあげているのかとも考えてみたが、「絶対にまどかとは別れない」と言い張る。私に白状させたいだけのようだった。
 雪之丞は私が自白するまで、追及をやめないだろう。だが、それはできない。私は「やっていない」からだ。
 
 そのころ人気ミュージシャンが覚せい剤で逮捕されたニュースが盛んに報道されていた。すると、あろうことか、雪之丞は、私が浮気相手の男と覚せい剤を使っていると言い出した。
「私は覚せい剤なんかする人間じゃない!」と訴え、「先生は覚せい剤をするような女と結婚したの?」と詰め寄っても、ダメだった。
「人は変わる。私が結婚した時は、まどかはまだそんなことをする人間じゃなかった。私はなにも、まどかが自分で打ったなんて言ってないよ。まどかが寝ている間に、相手の男が飲み物に混ぜて飲ませたと考えている」
 ミュージシャンの事件がそのまま、雪之丞の妄想を膨らませていた。それにしても、自由に外出もできない私が、いつ、浮気相手と寝ているのか、全く理解しがたい設定だ。
 またそのころ、週刊誌では、元女性新聞記者がアダルトビデオに出ていたことが報じられた。すると今度は、私がAVに出ていると言い出した。
「やっぱり新聞記者はろくなもんじゃない。まどかも私と結婚して、精神を高めるチャンスはあったはずだ」
 雪之丞の精神はこんなにも低かったのか……と、今ならいえる。しかし当時は、情報源の週刊誌記事と妄想だけで、自信たっぷりに私を追い詰める雪之丞の迫力に気圧され、「私はやっていない」と主張するのに必死だった。
 妻に不貞のそぶりがあるために、夫が妻の言動をいぶかり、疑うのならわかる。しかし私の場合、疑われる言動はひとつもなく、浮気のそぶりもない。第一、結婚後は友人関係もほとんど切れているから頻繁にメールや電話をする相手もいない。疑っても疑っても相手が出てこないから、逆に妄想が膨らむようだった。
 雪之丞の妄想の中で、浮気相手は次々と湧いてきた。
 風俗の男、AVに出ている黒人男性、ヤクザの男、父の進……。
 父を浮気相手だと言い出したのは、週刊誌の映画紹介で評価が高かった映画『私の男』を一緒に観た後からだった。
『私の男』は桜庭一樹の直木賞受賞作で、熊切和嘉監督によって映画化された。浅野忠信が娘の二階堂ふみと男女関係になる。世界的にタブーとされる親子の近親相姦が描かれたサスペンス映画だ。
 上映序盤から雪之丞と観たことを後悔したが、映画の影響で、雪之丞は私の浮気相手を父親だと言い出したのだ。親とは疎遠になっているというのに。
 自宅でヤマト運輸の配達員と不貞行為をしたと猛烈に疑われたこともある。
 奈良県吉野の滝行で、
「ヤマトを家に入れただろう‼」
「入れてません。私はヤマトと浮気してません!」
「本当のことを言え!」
「私はヤマトと浮気してません!」
 夏でも冷たい滝に打たれながら、雪之丞から責められ、私は大声で何度も潔白を叫んだ。
 そんな拷問のような追及に、私が全力で否認しても、雪之丞は決して私の無実を認めなかった。いま振り返ると全く酷いことだと思う。
 私は意地になり、ヤマト配達員との会話を録音して反訳するなど、何週間もかけて潔白を証明し続けた。
 ないことを証明するのを「悪魔の証明」という。証明するのが不可能か非常に困難な事象を悪魔にたとえたものだ。
 そもそも悪魔の証明は困難極まりない。そのうえ証明しなければならない相手が妄想に支配されている。この難境を、私はどうしたら克服できるのだろうか。この世に悪魔がいるようで、ただ辛く、苦しい日々が続いた。
 結婚前には確かに存在していた雪之丞の知性や理性は消えていた。雪之丞の妄想は次々とストーリー展開しながら、雪之丞は私が悪の世界に足を踏み入れているという自信を固めていった。
 そのうち、雪之丞は「女は金があると悪さをする」と言い出した。ネタ元は『家庭の主婦は昼間なにをしているのか』という本で、雪之丞は私の前で、これ見よがしに読んでいた。
 すると、雪之丞が唐突に、「雪花堂に金がないから、私とまどかで500万円ずつ、計1000万円を出資しよう。だから雪花堂に500万円を振り込んでくれ」という。
 私は経理をやっている立場上、「雪花堂に金がない」というのが嘘だとわかる。目下、「女は金があると悪さをする」という考えに支配されている雪之丞が、私から貯金500万円を取り上げるための方便なのはすぐわかった。
 納得できない私は、雪花堂の資産は十分にあることを主張して、私のほぼ全財産にあたる500万円を貸し付けるのは絶対に嫌だと言ったが、「雪花堂に一時的に金を貸し付けるだけだ」と雪之丞は言い張った。
 何週間も続くこの問答に私は疲れ果て、雪花堂が顧問を依頼している古沢会計事務所に事情説明しておけば、貸付金はいつか返ってくるだろうと思い、500万円を雪花堂に振り込んだ。
 私を疑い、そのうえ全財産を奪おうとする雪之丞が許せなかった。
 と同時に、とにかく辛かった。
 雪之丞の評判を落とせないから、誰にも相談できない。
 疎遠になった親を頼ることもできない。
 新聞記者を辞めてしまったから、社会にもう戻れない。
 バカ正直に、真面目に、しかも自分を殺して雪之丞のために生きているのに、その雪之丞に浮気女と決めつけられた悔しさ。
「浮気をしました」と言えば、雪之丞の虐待は終わるかもしれない。虚偽の自白をして楽になりたいと思った。――冤罪被害はこうして生まれるのかもしれない。
 ・・・・・でも、私は浮気をしていないから、そんなことは絶対に言えない。
 この世で一番信頼し、唯一の家族である雪之丞から、信用されなくなった私は、存在する意味があるのだろうか……と落ち込んだ時は、苦しくて仕方がなかった。
 結婚前までの私は、いつも前進思考だった。人生において「死にたい」など微塵も考えたことはない。
 が、この時期初めて、そのような考えが私を支配したのだ。
 寺尾まどかとしてこの世に生まれ、目標を持って社会で生きてきた私は、自分が選んだ結婚により、理不尽な悪魔の仕打ちを受け、自分自身が別人になったように感じた。
 ただ「死にたい」と弱気になることもあれば、「遺書を書いて死んで雪之丞に無実の抗議をしたい」、「妻の自殺によって雪之丞を一生苦しめてやりたい」という面当てに向かい、怒りに震えることもあった。具体的に死ぬ方法を考えては、「わぁー!」とひとり大声を出して、自分の後ろ向きの考えを打ち消した。
 この時期が、私の人生で間違いなく最も精神的に不安定で、結婚生活で一番のどん底だった。

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