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離婚道#29 第4章「相談その1 モラハラと暴力」

第4章 離婚へ

相談その1 モラハラと暴力

 ここは上野さくら法律事務所。
 午後2時、女性事務員に案内された会議室に入り、窓の外に目をやると、ビルの合間から不忍池がわずかに見えた。箇条書きしておいた手帳を開き、やや緊張しながら待っていると、「コツコツ・・・・・」とパンプスが床を踏む音が近づいてきた。
 リズミカルな軽いノックが2回、すぐに扉が開き、紺のピンストライプ柄、スカートスーツ姿の女性が入ってきた。
「お待たせしました。弁護士の久郷くごう桜子さくらこです」
(うわぁ、天海祐希だぁ・・・・・)と一瞬思ったのは、「弁護士の」と名乗る言葉の響きと歯切れのいい口調、ピンストライプを含めた全体の迫力に気圧けおされたからかもしれない。
 だが、肩下5センチのふんわりミディアムヘアや、私が「吉良まどかです。よろしくお願いします」と硬い表情で自己紹介した後に微笑んでくれたチャーミングな笑顔は、テレビドラマの離婚弁護士よりずっとソフトだ。
 ホームページの久郷弁護士のプロフィールに「平成17年 弁護士登録」とあり、私が仕事を始めた平成5年よりもずっと後だから、若い人なのだろうと想像していたのだが、どうも年下ではなさそうだ。
「昔、おニャン子クラブにいました」と言われても納得する――そんな華やいだ雰囲気で、若いころはきっと〝美人弁護士〟とチヤホヤされただろうなぁという印象だった。
 私は「あのう……離婚すると決めたわけではないのですが」と、決断できずにいる心境をいきなり示し、「夫婦間の問題を抱えており、ご相談したいと思っております」と来所理由を伝えた。
 久郷弁護士は「そうですか。どのような問題を抱えていらっしゃるのか、お聞かせいただけますか」と落ち着いた口調で話し、ペンを構えた。
 さぁ、いよいよ、家庭内の雪之丞の問題行動を身内以外の第三者に初めて話す時がきた。
 私はひと呼吸し、頭の中で繰り返したリハーサル通りに、夫婦の事情と私の置かれた状況について話し始めた。
「私は平成14年10月、33歳の時に入籍し、結婚17年になります。夫は能楽プロデューサーで、私よりも20歳年上です。子供はいません。私は結婚前、新聞記者をしており、夫を取材したことが知り合ったきっかけです。結婚を機に新聞社を辞め、専業主婦をしながら、夫の仕事をサポートしています。・・・・・」
 久郷弁護士はペンを走らせている。
「問題が起きたのは平成26年6月ごろで、夫は突然、ありもしない私の浮気を疑いました。その嫉妬妄想は度を超えていました。浮気相手は風俗の男やヤクザなどで、根拠も証拠もないのに、覚せい剤使用やアダルトビデオへの出演、窃盗や殺人未遂も疑われました。夫は『女は金があると悪さをする』と強く思い込み、『会社に500万円ずつ出資しよう』という嘘に従わせ、私は500万円を会社に振り込みました。この時期の夫の私への追及と執着はものすごくて、私は自分の財産を取り上げられてもそれに耐え、懸命に潔白を証明し続けました。しかし2年が過ぎたころ、突然、夫はつきものが落ちたように私に無関心になりました。夫が40歳も若い弟子に夢中になっていることがわかりました。・・・・・」
 久郷弁護士は「やっぱりね」と言わんばかりに、大きく頷いた。
 私は話を続けた。
 雪之丞が藤田と密会していたこと、それがバレてからの私への暴言、時に髪を引っ張り、物を投げられてケガをしたこと・・・・・。
 私が雪之丞の横暴な振る舞いについて説明すると、気のせいか、久郷弁護士の眼の色が変わったようだ。いくぶん身を乗り出している。
 私は、去年11月から現在まで、雪之丞から不利な条件で頻繁に離婚を迫られていることを説明した。
「夫の生活はかなりの部分で私のサポートが必要ですし、離婚しても同居を続けたいとしつこく言っていたこともありますので、本気で離婚したいと思っているのか、わかりません。私は夫に窃盗犯扱いされたまま、離婚することはできません。今後、夫が離婚届に判を押せと迫ってきたらどうしたらいいのでしょうか」
 リハーサル通り、5分程度で概要は話し終えた。
 ひと息つき、ペンを構えると、久郷弁護士は、
「いくつかお聞きしたいのですが……」
 と、雪之丞の仕事のこと、私が疑われた背景や激しい追及方法、雪之丞と藤田に不貞行為の証拠はあるかなど、いくつも質問を重ねた。
 久郷弁護士の問いかけは簡潔で、私の回答を受けた次の質問の展開も早い。さすが弁護士だなと感心しながら、私はひとつひとつ、できるだけ手短に答えた。久郷弁護士はみるみる理解を深め、問題を整理しているようだ。
「伺っていると、ご夫婦の関係は対等ではなく、明らかな主従関係ですよね」
 久郷弁護士の「主従関係」という表現に引っ掛かりを覚えた私は、
「あのう・・・・・20歳も年が違いますし、私の吉良への尊敬が結婚生活の下地にあるので、主従関係とはちょっと違うように思いますが」
「では、ご主人のモラハラは結婚当初からですか?」
「え⁈ 吉良がモラハラですか?」
「はい。妻を異常に束縛したり疑ったり、とことんおとしめたり、暴言を吐いたり、自分の非を認めなかったりするのは、典型的なモラルハラスメントです」
「・・・・・」
(私がモラハラの被害者?)・・・・・そう言われても、私にはどうもフィットしない。
「まぁ、たしかに、『ボケ』とか『気持ち悪い』を連発されたり、人前で『情けない』と罵倒されたりする時は辛いです。最初に『ボケ』が飛んできた時も、映画かテレビドラマでしか聞いたことがなかった言葉でしたので、思わずGoogle検索してしまいました」
「そうですよね。普通に生きていれば言われない言葉ですから。モラハラの被害者というのは、真面目で責任感が強く、自分を犠牲にする人が多いんです。それと、加害者に責められた時に、自分が悪いと反省する人。夫に従わないといけないと強く思い込んでいるため、自分がモラハラの被害者だと気づかない人も結構います。ご主人のような極めて自己中心的なタイプは、まどかさんみたいな真面目で素直な人が大好物なんですよ」
「はぁ・・・・・」
(大好物って)
 ずいぶん面白いことを言うが、笑えない。私はここ数年、笑うことがほとんどないからか、顔の筋肉が笑顔の型を忘れているのだ。
「ご主人の暴言は結婚当初からですか?」
「結婚前は、『まどかは私を高めてくれる』と、私の意見をよく聞き、気をつかってくれました。結婚直後から吉良は私のことを『幼い』『精神性が低い』と叱責するようになり、私自身、より良い自分になりたい思いから、改善しようと努めました。・・・・・私にとって仕事をやめた喪失感は甚大で、心の空白を感じないように、自由だった独身時代の自分を意識的に封印しようとしました。吉良に従い過ぎたかもしれません。・・・・・それと吉良には命に関わる病気が続き、仕事への焦りから独善的になっていきました。私としても、奇跡的に回復した吉良には思うように生きてもらいたい気持ちから、無駄なトラブルを避け、自分の考えを言わなくなっていったように思います。それが吉良を増長させ、私にはキツくあたってもいいんだと思わせてしまい、久郷先生のいう主従関係になったかもしれません」
 私はあれこれ考えながら、雪之丞だけが悪いのではなく、私にも非があると述べた。
 久郷弁護士は「まどかさんは悪くないですよ。モラハラは、加害者が圧倒的に悪いんです」と説き伏せるような言い方で、
「モラハラだけじゃなくて、ご主人の場合は暴行事件もあります」
 と続けた。
「久郷先生、暴行事件というのは、さすがに違和感が・・・・・。暴力といっても、ケガをして病院に行ったのは、雑誌を投げられた時の1回だけですから」
「その1回は明らかに暴行事件になりますし、常態的に両手で髪を引っ張る行為も立派な暴力です。まどかさん、このままだと事件になるか、まどかさんが病気になりますよ」
「・・・・・」
(弁護士は、仕事だから事件にしたがっているのか・・・・・)という考えが咄嗟とっさによぎった。しかし、正面の久郷弁護士に目をらすと、私を心からあわれむような眼差しを向けている。思えば、モラハラの言葉が出たあたりから、久郷弁護士の眼は、気遣わしげな、いかにもいたわしそうな色を帯び、その表情にはまるで悲劇のヒロインに同情するような慈悲深さがにじみ出ていた。
憐憫れんびんの情をかけられているんだ、私・・・・・)
 との考えが立ち上がった時、ハッとした。
 もっと自分を大切にしてください、それに気づいてください――と言われているのではないだろうか。私は、大事なことの優先順位を間違えていたのではないだろうか・・・・・。
「たしかに、ずっと胃が痛くて病院に行っていますが、ストレスによる神経性胃炎というのが医者の見立てです。ここ数カ月、あまり眠れないし、ほとんど食事も喉を通りません。深い呼吸もできません。このままだと深刻な病気になるかもしれないという不安はあります。でも恥ずかしい話、吉良に暴言を吐かれ、ケガをさせられても、私がモラハラやDVの被害者だという認識はこれまで全くありませんでした」
「まどかさんが病気になっても、心配するようなご主人じゃないですよ」
「・・・・・そうかもしれません。週刊誌を投げられ鼻のケガをした時も、流血している私に『警察へ行け! 全部言ってやる』と激昂していましたし、翌日、私の鼻が明らかに腫れているのに、完全に無視でした」
「病院では診断書もらいました?」
「はい。ケガをした直後と翌日に、自分の顔の写真も撮りました。その時は感情的に許せないと思いましたから。それと結婚時、『まどかの財産になるから、私のことは全部記録しなさい』と言われ、私も『吉良雪之丞物語』を書く日がくることを信じていたので、吉良のことは何でも記録しています」
「それはいいですね。証拠もありますから、暴行事件だけでもご主人から慰謝料とれますよ」
「・・・・・いま、先生から指摘されて、私が自分を守らないで誰が自分を守るんだ、という気持ちになりましたけど・・・・・そうなると、吉良と裁判して離婚するということですか?」
「お話を伺う限り、その可能性は高いです。窃盗犯でないことも、裁判で主張するしかありません」
「協議とか、調停ではなく?」
「もちろん、調停はしますが、おそらく調停では決着しないと思います。離婚カップルのうち、協議離婚は約9割で、1割くらいが調停します。調停でも決着できない1割くらいが裁判になります」
 裁判の話をきいても、それは全く他人事で、私は100%話し合いで離婚できるだろうと思っていた。でも、自分の置かれた状況がかなり深刻なのだということはわかる。
「・・・・・私、やっぱり結婚に失敗したんですね。吉良には才能があると信じて結婚しました。吉良がモラハラのDV夫だって、私は見抜けなかった・・・・・です。情けないというか・・・・・」
「実際、ご主人はそれほどのお仕事をされている方ですから、才能のある方だとは思います。見抜けませんよ。ホント、お気持ち分かりますよ。私だって見抜けませんでした」
「え?」
 久郷弁護士はわずかに躊躇ちゅうちょの表情を見せたが、話を続けた。
「いや、実は、まどかさんの話をききながら、私と全く同じじゃないかと思って聞いていたんです。いま、結婚13年目の夫と離婚協議をしていまして。夫も弁護士なんです。暴言はひどいし、発狂すると手がつけられないし、もう無理だ、自分を犠牲にするのはやめようと思って、つい先日、離婚を切り出しました。で、いま離婚協議中なんです」
「はぁ・・・・・」
 意を決して離婚相談にきてみたら、とんでもない展開になった。
(この弁護士、頼りになるのだろうか・・・・・)

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