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離婚道#18 第3章「昼顔」

第3章 離婚前

昼顔

 悪夢は突然はじまった。
 平成26(2014)年7月、ときに吉良まどか44歳。買い物をして夕方自宅へ戻ると、私の仕事部屋だけがまるでドロボーが入ったかのように滅茶苦茶になっていた。
 コピー機の下に、ミスコピー用紙がクシャクシャになって落ちている。紙をのばして開いてみると、私の銀行通帳が拡大コピーされているのだが、A4用紙の縦と横の向きを間違えたようで、数字が用紙からはみ出ている。
 机の引き出しが少し開いていて、通帳やカード会社から送られてくる明細書、新札1万円札の入った封筒が乱雑に押し込まれていた。明らかに、誰かに荒らされている状態だったが、確認する限り、何も無くなってはいないようだった。
 ――先生が探しものをしたのかな? ・・・・・にしては、なぜ私の通帳をコピーしているんだろう・・・・・?
 不審に思いながら、現場保存して雪之丞の帰りを待った。
 はたして――部屋を荒らした犯人はやはり、雪之丞だった。
 帰宅するや、雪之丞は能面の「獅子口」のように目を見開き、鬼の首を取ったかのような口ぶりで、
「まどか、私はわかる人間なんだ。今朝、瞑想した時、まどかが1年前に『離婚したい』と言った理由がわかった。浮気相手もだいたいわかった。その証拠も出たんだよ。全部話せば水に流す。私は水に流せる人間なんだ。さぁ、言いなさい!」
 そして一瞬、腹で息を吸い、鼓でも打つのかという間の後、
「言え!」
 と太い声で浮気の自白を迫ってきたのだ。
「先生、どうしたの? 私は浮気なんてしていない! するわけもない! 相手もいない! 相手は誰よ⁉」
 私は潔白を訴えるうちに怒りが噴き出し、尻上がりに大声になっていた。
 結婚してから100%雪之丞に従い、自己を犠牲にしてきた。雪之丞の逆流性食道炎からのてんかん発作を常に心配しているから、寝ている間も含め、24時間、私は雪之丞ために生きているではないか。そんな私に向かって、なんという疑いをかけるのか。
 爆発的に沸き起こった怒りが抑えられず、癇癪かんしゃくを起しそうだった。子供時分だったら、間違いなく、床に寝っ転がり、手足をバタバタさせて理不尽な思いを訴えただろう。
 私が怒りで震えていると、雪之丞はうすら笑いを浮かべて言い放った。
「ムキになるのはやましいからだ。やっぱり、まどかは浮気してるねぇ。これでわかった。間違いない」
 私は丹田たんでんに力を入れて踏ん張り、いったん落ち着こうと努力した。そして雪之丞の言葉のおかしな点を質問した。
「先生はさっき、私が離婚話をしたのが1年前と言ったけど、それ、4年前だよ」
 しかし雪之丞は「よく言うよ。去年のことじゃないか。まどかはとんでもない嘘つきだねぇ」と平然という。
 嘘はない。それは震災が起きる前だったではないか。「40歳からは誇り高く生きていきたい」――私はそういって離婚したい気持ちを伝えのだ。
 それを時系列で説明しても、「そんなはずはない。1年前だ」と雪之丞は間違いを認めない。というか、本当に1年前だと思い込んでいる。強い思い込みに支配されると、人はこうなるのだろうか。
 さらに雪之丞は、浮気の証拠は「通帳」と「基礎体温表」だと自信たっぷりにいう。
 通帳は「預金額が少ない」ことが証拠で、毎月30万円、結婚12年で計4000万円の給料を受け取っているのに、貯金が500万円程度しかないのがおかしいという。貯金が少ないのは、男に貢いでいる証拠だというのだ。私のことを、男に貢がなければ浮気もできない女だと決めつけているのも腹が立つ。
 基礎体温表についても無理矢理の主張を展開した。
 そもそも私は生理痛などで若いころから婦人科に通院していた。平成6(1994)年、25歳の時から毎朝、基礎体温を測り続けている。基礎体温表は10冊になるが、自分の記録として全部きっちり保管している。
 浮気を確信した雪之丞は、私の部屋を荒らし、基礎体温表をみつけた。表に記された性交の〇印を「相手は自分ではない」と言い、その基礎体温表が浮気の証拠だと言うのだ。・・・・・そんなバカな!
 だが、雪之丞は大真面目だ。いかにも穏やかな雰囲気を装っているものの、目だけが狂気を帯びている。
「私は修行して心身を鍛えているから、アノコトをこんなにする人間ではないよ。結婚後にこれほど印が多いのは、まどかが独人時代の男関係を引きずっていた証拠だ。それに、ここ数年、私はアノコトを全くしていないのに、年に数回の印があるね。相手は私じゃないから、まどかは風俗の男と遊んでいる。貯金がない理由もそれで説明できるんだよ」
 雪之丞が性交を〝アノコト〟というのには笑いそうになったが、いまは笑ってなどいられない。
「先生は、『吉良雪之丞の子供を産んでほしい』と言っていたこと、だから妊娠したくて、私が排卵検査薬を使ったりして妊活していたこと、覚えてないの?」
「妊活ってなんだ! そんな作り話をするな。これほど印があるのは、私以外の誰かと関係している証拠だ」
「私は、自分の浮気の証拠を基礎体温表につけているってこと?」
「ああ、そうだねぇ。人はそういうものだ。不貞をしていると浮かれてしまって、抑えが効かなくなるんだね」
「先生が自由に見られる基礎体温表に浮気の証拠を残すバカがいるの?」
「私は通常、そんなものを見るはずがないからね。実際、まどかの不貞に気づくまでは、体温表を見なかったんだから、私を見くびるのも当然だろう。でも、悪いことをすれば、いつかバレる」
 雪之丞は語尾の「バレる」を強調し、言い切って首を縦に揺らした。芝居がかった言い回しは、雪之丞の自信をあらわしている。
 私は話しているうち、雪之丞が正常ではないことを確信した。強い思い込みによって、明らかに過去の記憶が塗り替えられている。妄想もとんでもなく広がっている。
 もはや、一日の行動スケジュールを見せて「私には浮気する時間もない」とか、冬物の結城ゆうきつむぎ(※⑱)や盛夏に着る越後上布などを見せて「何十万円もする着物や帯を何枚も買っていれば、貯金はこの程度だ」と説明しても通じなかった。
 それに私は、自分の給料から一部生活費を出している。食費は雪花堂で領収書精算するように言われているから、私は雪之丞から生活費をもらっていないのだ。自然食品を買う時は領収書をきるが、デパートで肉など買う際は、さすがに気が引け、自分で支払っていた。そのことを雪之丞に説明しても、「ならば今後は食費の一部を請求しろ」というのみだった。
「まどか、私には大事なことを天が教えてくれることがよくある。週刊誌を読んでたら、いま『昼顔』がブームらしいじゃないか。家庭の主婦の多くは日中、夫の目を盗んで浮気をしているそうだね」と、雪之丞がニヤリと笑った。
「はぁ?」
 唖然とした。信じられない。何も言えない。雪之丞の妄想を誘発したのが週刊誌の安っぽい記事だったなんて……。
 ちょうどそのころ、フジテレビ系の木曜劇場で『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』というドラマが話題だった。カトリーヌ・ドヌーブ主演の映画『昼顔』(1967年)は、だいぶ前に名画座で観たことがある。ドヌーブの『昼顔』は、上品な人妻が日中、好奇心から娼館で「昼顔」という源氏名の売春婦として働くという設定だった。
 それをオマージュしたという上戸彩主演のドラマは観ていない。だが、上戸彩の『昼顔』も、貞淑な主婦が日中、不倫をするという筋であることは番宣などで知っている。
 雪之丞は、「昼顔ブーム」が社会現象だとする週刊誌の記事を見て、感化されたようだ。また、同じ記事に「女性用の風俗店が流行っている」とも書かれていたため、雪之丞の頭の中で、私の浮気相手が風俗店の男になったようだった。
 いま目の前で私を責めている男は、私がかつて尊敬していた雪之丞とは全く別人だった。
 
※注釈
結城紬ゆうきつむぎ 茨城県結城地方の特産で、真綿をつむいだ手紡糸てぼうしで緻密に織られた、奈良時代から続く伝統的な絹織物。昭和31(1956)年に国の重要無形文化財に指定、平成22(2010)年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。本来は地質堅牢けんろう(丈夫で頑丈)な織物だったが、縞やかすりの精緻化で糸が細くなっているため、結城紬は生地がとにかく軽くて柔らかい。数々の作家や著名人に愛される最高級絹織物とされる。

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