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給油中蘇る 横浜の思ひで(ヲヤジ編)

三度目の正直で横浜へ
高校1年生の時最初の挫折で横浜行を断念しました。次が専門学校を卒業後就職先が東京の企業に内定を貰い私は、この就職に賭けて上京しようとしましたが、直前に破談になってしまいました。その時自分にはこれで憧れの大都会へ出るチャンスが、潰えてしまったんだなと思いました。その後札幌に出て13年くらい細々と生活してました。そして、何時しか私もヲジサンに為っていました。そんな折 2010年の2月頃知り合から横浜で派遣事務所を立ち上げるので、手伝って呉れないかと声が掛かりました。この日迄ただ日々の生活を送る為に夢も希望すら持つことなく生きる為だけに働くそんな諦めかけた人生の構図の中で最後のチャンスと思い喜んで引き受けました。待遇も駐車場を確保してあるから、自家用車持ち込み可能 更には、事務所の片隅のスペースで良ければ、寝起きして良いとの事なので落ち着くまでそれで良いと思いました。右も左も分からず転がり込む身としては、好待遇だと感謝したものです。ただ当時の私の愛車は三菱パジェロV6-3500では、コンクリートジャングルにはオーバースペックなので横浜には実家の100系マークII を借りる事にしました。たばこと毛布とギターをバックシートに積んで苫小牧からフェリーに乗り、いざ新天地へと向かいました。お察しの通り この派遣事務所の仕事内容は、決して胸を張ってこの場でご紹介は出来ません。しかし不法入国者相手とか明らかな犯罪に関与した組織では無いです。一般の派遣業務のほかにちょっぴり風俗業にも関係があった様な気がします。その様な危うい環境のなか現地スタッフの佐藤さん(本名)男性45歳と知り合いました。この方は私が今まで出会った人の中で最も温厚で思い遣りに溢れ何時だって周りを明るくしてくれるそんな人でした。対する私は嫌われ者選手権が有れば必ず決勝戦に余裕で進む自信があるそんな男です。にも拘わらず彼は何時だって優しく話し掛けてくれたのです。佐藤さんから中国人が多い街だから中国の人と仲良くやって行く事が大切だよと何度も教えられました。そのことを今もまだ覚えています。あれから十数年の月日が重なり今回記事を書くにあたりグーグルマップ ストリートビューで思ひ出の街を探索してみました。やはり時代の流れか、大岡川の何時も利用していた公衆トイレその斜め向かいにあったam/pmがミニストップ黄金橋店に変わってた。オリジン弁当もビデオ試写室も無くなってた。ただ中華のお食事処 一番さんは元気に営業されてる様で嬉しかったです。

スタンドの姑娘/クーニャン
ある日横浜市内のスタンドに給油とポリタンクに灯油を買いに行きましたスタンドに室蘭ナンバーの我車を乗り入れたその時ハッとしました。スタンドの姑娘店員さんが、まだあげ初めし前髪が給油機の近くに見えたとき、なんて可憐な乙女なのかと思いました。続けて元気よく駆け寄り好青年 たぶん彼は中国から自動車工学を学びに方留学生かと想像しました。ガソリン給油を彼に任せ花のように美しい彼女にポリタンクを渡し灯油をお願いしたのですが困った顔をして灯油とは何かと聞き返して来る。我車に給油を終えた好青年も加わり灯油が欲しいと説明するも彼も首を傾げるばかりで埒が明かないので、次回来た時で良いかと好青年にガソリン代を渡し帰ろうとした時
一台の車が入って来た。その車に向かいふたりが駆け寄り『○○先生おつかれ様です。』と言いながら事の経緯を説明している用だった。○○先生と呼ばれた男はスタンドのマークの入ったジャンバーを着てその下から赤いシャツが覗いている。多分ここの所長なのだろうが何だか気に入らないそして瘦せぎすで険のある目つきなのがもっと気に入らなかった。○○先生は何やらぼそぼそと指示した様でふたりは『○○先生ありがとうございます』と別の給油機に向かい駆け出した。○○先生は僕の横を通りスタンド事務所に向かった ○○先生が僕の横に来た時『おい、お前どれだけ偉いんだ』と言ってやった。『真面目な留学生と姑娘に先生と呼ばせて威張り腐る お前なんか偉くなんかない資本主義社会の傀儡だ』と言ってやつたら『なんだあんた おかしいんじゃないのか』と言われた。僕はその気に入らない赤シャツの襟首を掴みながら『義を見てせざるは勇無きなり』と叫んだその様子に驚きふたりが駆け戻って来た。確かにその時僕は自分に酔っていた。アジアの民を自由と言う名の元に開放する闘志になった気でいた。だが、あろう事か駆け戻って来たふたりの民は僕を取り押さえに掛かった。好青年は僕を後ろから羽交い絞めにする 姑娘に至っては、目に涙を浮かべポカポカと叩いてくる始末である。三人相手では成す術もなく、無様に僕は降参した。乱暴に白い手をのばしてリンゴでは無く赤いポリタンクを突き返しながら姑娘は『オマエハ、ワルイヤツ』と言い捨てた。完膚なきまでに叩きのめされた僕はとぼとぼと車に戻り帰ろうとした時 好青年が赤シャツに何やら訪ねているのが聞こえてきた『○○先生、あの車のナンバーってどこの地方なんですか』それに対して赤シャツが『外国でないかい』と言っているのが確かに聞こえた。でも僕はそのままスタンドを後にした。

事務所に泣き帰って佐藤さんに事の顛末を説明したら『それは、駄目だよ
中国の人が言う○○先生は日本語での○○さんって事だからさ。でもそんなに気に病む事ないよ。良かれと思ってした事でしょう』と慰められたが自分の無知を心から恥じた。因みに灯油は煤油(méi yóu)だそうです。
結局その後事務所も上手く立ち行かなくなり解散しました。横浜を去るとき
あれ以来足が遠のいていたスタンドに、やっぱり後味が悪いので一言謝ってから帰ろうと、思い北海道に帰るその日 立ち寄ってみたけど赤シャツもあのふたりもいなかった。そして佐藤さんともあれ以来連絡を取っていない
彼は今も横浜で、あのときの優しい笑顔のまま元気に暮らしているだろうか。


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