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フジコ·ヘミング(ピアニスト)

昨日、魂のピアニスト、フジコ・ヘミングさんの訃報を、ニュースで
知った。92歳だったとのこと。

日本人の母と、スウェーデン人の父を持つハーフであり、病気で
左耳しか聞こえない体であり、
人生の半ばを過ぎてから、
ピアニストとして、世界に認められた人である。

私は、10年以上前に、母と
大阪での、フジコ·ヘミングさんの、ピアノコンサートを聴きに
行った。やっと取れたチケットで、最後の列から3番目くらいの
席だった。だが、フジコさんの、
ピアノは、満員の会場全体に響き渡る美しさだった。確か、ロシア人のバイオリニストとも、共演後の後に、彼女のピアノソロ曲を、いくつか聴いた。

フジコさんの、代表曲「ラ・カンパネラ」は、本当に素晴らしかった。楽譜に正確な演奏というよりは、彼女の、丁寧で軽やかな指使い、軽やかでありながら、なぜか、低音が響いてきて、リズミカルだが、心に流れてくる、演奏だった。
コンサート終了後に、フジコさんの挨拶があり、可愛がっている、猫ちゃんたちのお話をされた。
やはり、美しい日本語だった。

私は、子供の頃に、6年間ピアノを個人レッスンで習った。
家に、姉のお下がりの、アップライトピアノがあったので、母に
「ピアノ習ったら?」と言われて、始めた。

最初は、指の動きの基礎練習ばかりで、よくピアノの先生に、
叱られた。なぜなら、週一回の
自宅での、レッスンを受けるだけで、全く練習しなかったから。
「また、練習さぼったでしょ❗
」と、何回も先生に怒られた。
当たり前だが、ピアノは、なかなか上達しなかった。なのに、
私は、ピアノを習うのを、やめようとは思わなかった。
ピアノの音(響き)か好きだったから。一年に一回、ピアノの先生主催の、ピアノ発表会があり、
その時だけは、母が買ってきた、ヒラヒラのピンクや白のワンピースを着て、舞台の上でピアノを演奏した。(かなり、まちがえたが) 私は、ヒラヒラした服を着てたのは、その時ぐらいだ。
(普段は、デニムのパンツ)

しばらくして、ピアノの先生が結婚されて、私は、先生の御宅に行って、ピアノのレッスンを受けることになった。
そして、出会った。ホンモノの、
グランドピアノ❗。
毎週、そのグランドピアノを触れるようになってから、私は、
家でも、ピアノの練習をするようになった。家の、中古の、アップライトピアノとは、全く違う、
美しい響き。先生がお手本に弾いてくれると、さらに感動が広がった。おかげで、やっと先生に怒られなくなった。

中学生になり、部活(ソフトボール)を始めて、ピアノをやめた。

大人になり、ヤマハの大人の、
ピアノ教室に行った。自分が好きなJPOPの曲を習った。
🎵涙そうそう、🎵戦場のメリークリスマスなどが、簡単な楽譜だが、また弾けるようになった。

フジコさんの、演奏を聴いて、
素敵だなと感じて、感動できるのも、子供の頃にピアノを習い、
その音の響きを忘れないからだと思う。ピアノを進めてくれた母と、すこし怖かったが、丁寧に教えてくれた(きれいな人でした)
ピアノの先生に、大人になり、年をとった今、感謝している。

フジコさんの、ピアノ演奏を生で聴けたことは、数少ない幸運の、
一つだった。

最後に、フジコ・ヘミングさんに永遠の、感謝とリスペクトを。


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