女将ちゃん、ごっつあんです! ~伝説の大横綱、女子高校生に転生す~ 第26話 穢れ払い 其の四

 どうしよう。このままじゃ、私は、正確には雷電丸がだが、あの一角鬼とかいう強そうな相手と戦う羽目になってしまいそうだ。

 先程の雷電丸の挑発を相当根に持っているのか、彼の鋭い眼光は土俵で四股を踏んでいる間中、ずっと雷電丸に向けて放たれていた。

 それに付け加えて、大きく裂けた口からは食欲旺盛な涎がボタボタと顎を伝って土俵に滴り落ちていた。その目はからは鋭い眼光が放たれているが、時折目を細めて笑っている様に見えた。

 まるで、怒りと殺気と食欲に塗れた獰猛な野獣につけ狙われている様な錯覚を感じた。

「仕方ない。ここはオレが出張ろう」

 そう言って、沼野先輩はパン! と自分の両頬を両手で叩いた。

「いや、あ奴は儂をご指名のようじゃぞ。それに、お前は足を負傷しているではないか」

 雷電丸は沼野先輩の引きずっている足を見ながら言う。見ると右足のくるぶしの辺りが赤く腫れあがっているのが見えた。これでは歩くことすら辛いでしょうに。

「心配するな。例え負けても協定がオレ達を守ってくれる。少なくとも殺される心配はない」

 沼野先輩はそう言うと、雷電丸の肩に右手を置きながら口元に微笑を浮かべた。

「これでも一応、オレはお前の先輩だ。ひよっこのお前を守る義務がある。それに後輩の道標になることもオレの役目なんだよ」

 そう言って、沼野先輩は踵を返す。向かう先には一角鬼の待つ土俵があった。

「分かった。じゃが、決して無理はするなよ、《《先輩》》」

 沼野先輩は《《先輩》》の言葉を聞いて、咄嗟に雷電丸に振り返る。

 雷電丸は沼野先輩と目が合うと、直ちに蹲踞して一礼した。

「ごっちゃんです、錦先輩!」

 雷電丸なりの最大級のエールなんだろうと思った。

 沼野先輩は一瞬だけ目を丸めると、瞬時に精悍な顔つきになる。全身から闘気のようなものが立ち昇るのが見えた。

「任せておけ!」咆えるようにそう言うと、沼野先輩は土俵に向かって行った。

 無事に帰って来てください、沼野先輩。私は精神世界で両膝をつきながら彼の無事と勝利を祈った。

『でも、例え負けても殺されることはないって沼野先輩は言っていたわよね。それを聞いてちょっと安心しちゃった』

 私がそう楽観的なことを喋っていると、突然、雷電丸が呆れ返ったように嘆息をするのが聞えた。

「相変わらず双葉は頭お花畑じゃのう」

『それ、どういうことよ? だって協定って奴で力士を殺すのは禁じられているんでしょう? なら、心配ないじゃない』

「ああ、殺されることはの。それはつまり、協定さえ守れば何をしてもいいということもである。双葉、お前にその意味が分かっているのかのう?」再び雷電丸は深く嘆息した。

 協定を守ればあとは何をしてもいい、ですって?

 私は逡巡の後、すぐにハッとなった。たちまち不吉な予感が胸に塗れた。沼野先輩が血塗れの姿で土俵に倒れるイメージが脳裏から離れなくなった。

 沼野先輩が土俵に上がると、塩を豪快にまいた。

 それを見て、一角鬼は苛立ちの声を張り上げる。

「沼野錦! オレの相手は貴様ではない。先程ふざけたことをほざいたあっちの女ぞ⁉」

「オレでは不服か?」

「当然だろう? 去年のオレとの取り組みで、お前はしょんべん洩らしながら無様に逃げ帰ったではないか。お前では話にならん。いいからあの女を寄越せ! そうすれば、今日はお前だけは五体満足で無事に帰すことを約束しよう」

 あばばばばばば!? ご指名を受けてしまったわ⁉ でも、今、妙なことを言っていたわね。お前だけは五体満足で無事に帰すって、まるで私だけは無事じゃ済まないって言われているような……?

 その時、鬼門前で木場先生と交わした会話の内容が脳裏に過る。

『手足が千切れようとも、死にさえしなければ私が責任をもって治癒してあげよう。もし相撲に負けた時は大急ぎで逃げ帰ってきたまえよ』

 手足が千切れようとも、ですって? あの時は全然気付かなかったけれども、何故、木場先生はあんなことを言っていたんだろうか? そもそも相撲で手足が千切れるような事態になんかなるわけが……。

 私はハッとなる。何故、あの時、木場先生は自分の腕を鬼門に食べさせたのか。その後、彼女が自ら回復魔法で腕を再生させて見せたのも、きっとこれから起こる事態を見越してのことだったのだ。

 命は奪われないが、手足の一本や二本は無くすかもしれない。雷電丸はそのことを私に伝えたかったのだとようやく理解した。

「あれはまだ十両D級だった頃のオレだ。今のオレはあの時よりも更に強くなって小結B級に格付けを上げた。万年関脇A級のお前なんぞよりは遥かに勢いがあるとは思わんか?」

 沼野先輩は不敵にほくそ笑み、一角鬼は眼光に殺気を上乗せして沼野先輩を睨みつけた。

「よかろう。なら、今宵は存分に可愛がってやろう。覚悟をしておけ。殺してくれと懇願しても殺してやらぬからな」

「それはこっちの台詞だ。オレをあの時十両と同じと思わない方が身のためだぞ」

「ぬかしよるわ」一角鬼はクックックと肩を震わせた。

 そして、沼野先輩と一角鬼は互いの正面で睨み合うと、ゆっくりとお互いに腰を落とし片方の拳を土につける。

 それまで獰猛な唸り声で沸き立っていた会場は、土俵で二人が身を屈めた瞬間、完全な静寂に包まれた。

 二人は対峙し、互いに鋭い眼光を放ち、間に火花が散っている様に見えた。

 その時、沼野先輩の額から一筋の汗が頬を伝い顎から下に落ちる。

 汗が地面に落下するのを合図にしたかのように、二人は同時に両拳を地につけ咆哮を発した。

 肉と肉がぶつかり合った瞬間、まるで大きな釣鐘がぶつかり合ったかのような衝撃音が会場内に響き渡り、烈風のような衝撃波が発生する。

 沼野先輩は一角鬼のまわしを取ることに成功するが、そこで会場内が騒然となる事態が起こっていた。

 一角鬼は両手をぶら下げるだけで、沼野先輩のまわしを取ろうともしていなかった。

 一瞬、事態が呑み込めなかった沼野先輩は、すぐに一角鬼の意図に気付き怒りに顔を引きつらせる。

「ハンデだ。オレはしばらくの間、両手を使わないでおいてやる。さあ、今が念願の白星の好機だぞ?」

「なら、遠慮なくお前を土俵の外までぶん投げてやろう!」

 侮りを受け、怒りに塗れた沼野先輩はわましを掴んでいる両手に青白い光を纏わせた。

 あれは神氣とかいう力だろう。木場先生も沼野先輩も、あの力を出した時は超人的な力を発揮していた。さっきも沼野先輩は雷電丸と互角の戦いをして見せた。一角鬼が沼野先輩を侮っている今なら、もしかして勝てるかもしれないわ!

 沼野先輩の瞳から青白い炎の様な光が迸ると、一気に一角鬼を土俵際まで追い詰める。

「何!?」と、一角鬼は驚愕の声を吐き洩らすと、とっさに沼野先輩のまわしを掴み上げた。

 一角鬼は土俵の外に押し出される寸前で小俵に足の指を引っ掛けて辛うじて踏みとどまる。その表情が焦燥に塗れていた。

「両手は使わないんじゃなかったのか⁉」

「沼野錦めが、小癪にも神氣に目覚めおったのか⁉」一角鬼は忌々し気に叫んだ。

 沼野先輩はそのまま一角鬼を土俵際まで追い込んだ後、更に力を込めてそのまま一角鬼を外に押し出そうと身体を前に倒した。

 しかし、それでも一角鬼は耐え、二人は膠着状態に陥った。

「一角鬼、今宵、お前は自らの侮りの結果、初めて黒星を得ることになる。さあ、これで終いだ!」

 沼野先輩の全身から、青白い炎の様な光が噴き出した。

 そして、沼野先輩は片手をまわしから離すと、もう片方の手で身体を捻りながら一角鬼を投げ飛ばそうとする。それは上手投げという技だ。一角鬼の身体はベクトルをずらされ、そのまま土俵の外に投げ出されようとした。

 やった! 決まり手は上手投げね!? 沼野先輩の大白星よ!

 と、私が喜んだのも束の間、突然、土俵から悲鳴のような叫びが上がった。

「ぐわあああああ⁉」沼野先輩は苦悶に顔を歪めながら叫んでいた。

 見れば、一角鬼が沼野先輩の肩に噛みついていた。彼の肩から多量の血が噴き出し、瞬く間に滴り落ちる血によって彼も、足元の土俵も血に染まった。

 一角鬼はふん、と鼻で笑うと、沼野先輩から離れた。離れながら口の周りについていた血を舌で舐めとり、恍惚な笑みを浮かべる。

『か、噛みつくなんて卑怯よ⁉』私は思わず叫んでいた。

「いんや、あれもアリじゃよ」雷電丸は退屈そうに欠伸をしながら言う。

『あれの何処が相撲なのよ⁉ 見て、沼野先輩、血塗れになっちゃったわよ⁉』恐怖と驚きのあまり、私の胸は激しく早鐘を鳴らす。

「なんなら蹴り技もやっていいんじゃよ? 元来、相撲とはそういうもんじゃ。原初の力士と呼ばれる宿禰すくね蹴速けはやのやっていたものも相撲というよりは取っ組み合いの喧嘩みたいなもんじゃった。今の相撲がお上品過ぎるんじゃよ」

 それが本当なら、沼野先輩はどうなってしまうんだろうか? このままでは本当に殺されてしまうわよ⁉

 雷電丸はそれ以上何も語らず、両腕を胸の前で組みながら仁王立ちになって沼野先輩の取り組みをジッと見ていた。

 雷電丸、見ていないで何とかして! と言おうと思った瞬間、私は吐きかけた言葉を呑み込んだ。

 見ると、雷電丸は涼しい顔を浮かべながら両腕に血がにじみ出てくるほど爪を立てていたのだ。

 雷電丸も耐えているのね。本当は今にも土俵に飛び込んで沼野先輩を救出したいと思っているのだろう。

『沼野先輩、頑張れ!』私は精一杯の声でそう叫んだ。

「沼野錦、美味い血を馳走になった。だが、オレはこれだけではまだまだ満足出来んぞ?」にたり、とほくそ笑みながら一角鬼は沼野先輩ににじり寄る。

「なら、オレのとっておきを見せてやる」そう言って、沼野先輩は左手に青白い炎のような光を纏わせた。

「ほう、まだまだ楽しませてくれるのか。ならば早く来るがいい」

「言われなくても!」

 次の瞬間、沼野先輩は一気に一角鬼との間合いを詰めた。そして、左手を左脇に引き寄せる。

 その時、沼野先輩は一瞬だけ顔をしかめた。右足がわずかに下に落ちたように見えた。もしかしたら、怪我の痛みで体勢を崩しそうになったのかもと、私は焦燥する。

「金剛掌底破!」沼野先輩は叫ぶのと同時に、青白い炎の様な光をまとった左手で一角鬼に張り手をぶちかます。

 しかし、一角鬼はそれを悠々とかわすと、その大きく裂けた口で沼野先輩の左腕に牙を突き立てた。
 沼野先輩の顔が苦悶に歪み、左腕からは多量の血が噴き出す。

「ぐはははは! 貴様の腕をこのまま食いちぎってやろう!」一角鬼は勝ち誇った笑い声を上げながら、更に牙を深く突き立てた。

 しかし、沼野先輩からは悲鳴も叫びも上がらない。代わりに、沼野先輩は不敵な笑みを浮かべていた。
 
「かかったな。こっちが本命だ!」そう叫び、沼野先輩は右手に青白い炎のような光をまとった。

「し、しまっ……!?」一角鬼は慌てて左腕から牙を抜こうとするも、牙は肉にしっかりと食い込んでいるようで、どんなに足掻こうとも牙は抜けなかった。

「金剛掌底破!」

 その瞬間、巨岩が砕け散る様な激しい衝撃音が響き渡る。

 沼野先輩が放った右の張り手は、完全に一角鬼の顔面に炸裂した。

「ぐわあああああああ!?」一角鬼は勢い余って牙は抜けたが、そのまま土俵の外に向かって身体が吹き飛ばされていった。

『やったわ⁉ 沼野先輩の勝ちよ⁉』

 だが、私の喜びは早計に終わる。

 土俵の外まで吹き飛ばされると思った一角鬼の巨体は、空中で一回転すると、ギリギリ土俵際に降り立ったのだ。

 たちまち、沼野先輩の表情が歪む。それは焦りなのか、屈辱なのか、もしくはその両方なのか。私には分からなかったが、少なくとも沼野先輩が危機に陥っていることだけは理解出来た。

 振り返った一角鬼の左頬は肉が抉れていたが、驚いたことにその傷がみるみるうちに修復する。

「あと一歩だったな。お前があともう一つ上の格付けだったなら、今頃オレの顔は粉々に砕け散っていただろうよ」一角鬼はそう言うと、コキコキと首を鳴らしながら悠然と沼野先輩の前に歩いて行った。

 一角鬼は沼野先輩を見下ろすと、目を細めながら大きく裂けた口を開いた。そこから多量の涎が滴り落ちる。

「それで、次は何を見せてくれる? さあ、早くしろ。でないと、取り返しのつかないことになるぞ?」

「うわあああああ!」沼野先輩はただそう叫ぶと、右手だけで何度も一角鬼の腹部に張り手をぶちかます。

 しかし、神氣の宿らない右手でいくら一角鬼に張り手をぶちかましても、一角鬼には微塵もダメージは与えられない様子で、奴は涼し気な顔をして沼野先輩の反撃を見下ろしていた。

「万策尽きたようだな。なら、これからはお楽しみの時間というわけだな?」

 そう言うと、一角鬼は沼野先輩のまわしを片手で掴み上げると、涎を垂らしながら目を細めた。

「オレの負けだ! とっととオレを土俵の外に放り投げるがいい。次こそは絶対にお前に勝って見せるから、覚悟しておけ!」沼野先輩は一角鬼を睨みつけながら怒声を張り上げた。

 すると、一角鬼は一瞬だけ惚けると、すぐに、ぐはははは! と高笑いを上げた。

「何がおかしい?」沼野先輩は強がるようにそう訊ねるも、明らかに動揺していた。

「残念ながら、まだ終わりではない。むしろ、これからが始まりだ」

「それはどういう意味だ⁉」

「こういうことよ!」

 一角鬼は大きく裂けた口を更に広げると、そのまま沼野先輩の右足に食らいつく。

「がああああああ⁉」沼野先輩の苦悶に満ちた絶叫が響き渡る。

「取り組みが終わるまで、お前はこれからオレに嬲られるのよ。だが心配するな。死ぬ前までには解放してやる。それまでに手足が残っていればいいな」

 何てこと!? 恐れていたことが現実になってしまった。私は、相手を殺すことが協定で禁じられていると聞いた時は安心したが、もしかしたら殺すこと以外のことは禁じられていないのでは、と気付いていた。

 もしかしたら、相手がわざと決着をつけず、嬲る為だけに取り組みを長引かせるかもしれない。

 それが目の前で現実のものとなってしまった。沼野先輩はこれから一角鬼に拷問めいた蹂躙が行われることだろう。

 こうなったら協定もなにもない。一刻も早く沼野先輩を助け出さないと。

 私は、雷電丸に沼野先輩を助けてとお願いしようとする。

 だが、それは杞憂に終わる。

 何故なら、雷電丸はいつの間にか既に土俵上に乱入していたからだ。

「そこまでじゃ」

 そう言って、雷電丸は沼野先輩の右足に噛みついている一角鬼の左頬を張り手で薙ぎ払った。

 しかし、雷電丸の張り手を喰らっても、一角鬼は微動だにせずその場に立ち尽くしていた。

 ボタッと沼野先輩が土俵に落ち転がると、苦しそうに呻いた。

「この勝負、先輩の白星じゃ。良かったの、格下に勝てて」雷電丸は大きく目を見開きながら呟くと、にやり、とあざ笑うかのように口の両端を吊り上げた。

 私はその光景を見て思わず目を背けそうになった。

 雷電丸の張り手を喰らった一角鬼は微動だにせずその場に立ち尽くしていた。だが、それは奴が雷電丸の張り手に耐えたわけでも無傷だったわけでもなかった。

 見ると、一角鬼の下顎が無くなっていた。

 今の雷電丸の一撃によって、下顎が何処かに吹き飛ばされていたのだった。

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