見出し画像

今後のnote投稿予定


元旦のテレビでは、地震のニュースがずっと流れてた。

そして、今日は1月2日。

テレビは局によっては、お正月番組をしている。もちろん、地震のニュースをしている局もある。

私は体調が悪いせいもあり、今もほぼ寝正月でお正月をすごしていた。

そういうふうに、すごしていて、今日はnoteを投稿するか、さらには、noteを投稿しつづけていいものか、悩んだ。

なんて、声をかければいいのだろうか。

どうがんばっても、私は被災した方の本当のつらさを感じとれない。どれだけ私が言葉を重ねても嘘くさくなってしまう気がしてならない。

大変な思いをしているのは、テレビを見ればすぐにわかる。でも、なにを言えばいいのだろう。

悩んだことは、それだけではない。

毎日投稿をつづけるか、つづけないか?
そういう、個人的なことを悩んだ。

そのことを考えたときに、私が思ったのは、もしも、地震のニュースを受けて、私が毎日投稿をやめた場合の未来についてだった。

地震のせいで毎日投稿をやめるというふうになるのは、とても失礼なことだと思った。

地震は、だれのせいでもない、自然現象なのに。まるで、地震が起きたせいで、毎日投稿をしませんと宣言するのは、あまりにも失礼じゃないかと。

そんな個人的なことと、地震への配慮をならべて比べる私の考え方が、浅はかなうえに失礼な気がした。

こんなことで悩む私の配慮がたりないのかもしれない。だけど、私の日常をすごすことこそが、大事なのではないかと気づきました。

なので、私は毎日投稿をつづけます。

私の日常はつづいていて、私の日々に責任をもつということこそ、私が今できる精一杯だと思ったからです。

もちろん、私のnoteが、そんなにすごいものかといえば、そうではありません。

だけど、日常はつづいているのだという、証として、このnoteをつづけたい。

だから、いつもどおり、私は楽しく書くことをつづけます。

投稿するかどうか悩みましたが、まったく地震のことに触れずに、noteの毎日投稿をつづけるのは、私のなかで違うなと感じたので、書きました。

なかったことのように、noteで毎日投稿をすることが、私にはできなかったので。私のなかで、勝手に心の整理をして、区切りをつけました。

やはり、なにを言っても、私のいたらなさを感じます。

あと、嘘くさくなるとは言いましたが、最後に言いたいことが、ひとつだけ。

地震で亡くなられた方へ、お悔やみ申し上げます。