お題目では響かない。

2022年夏、私はコロナに感染した。

家族がハイリスク群に該当したので、ホテル療養を選び、大阪のビジネスホテルに10日間療養に入った。
幸いにも私自身は軽症だったこともあり、有名なビジネスホテルで療養することになった。そのホテルは社長の風貌やコラボしている食品、あるいは室内に置かれているらしい書籍で有名なホテルだった。
そんなホテルに、10日間滞在することは、私の好奇心を刺激していた。
有り体にかつ不謹慎を承知で言えば、物見遊山なところがあったことは否めない。療養している人にも、そのホテルにも興味があった。

ホテルでの療養というシステムは、間違いなく有効で、適切に機能していた。感染した療養者とスタッフは物理的に隔絶されており、会話する時は必ず透明な窓越しに行われていた。感染したこちら側に入る時は防護服を着用し、スタッフの安全は担保されていた。その対応が適切であることは、もちろん理性は理解している。一方で、自身が「まともな世界」に対する負担になっており、ある種の穢れとなったような感覚も覚えた。

ゴミを1階のロビーに捨てに行く時に、ふと見かける新しい療養者は、時には座ることも辛そうだったり、大荷物を抱えた人だったり、様々だった。

だが、誰もがなんとなく小さく見えた。

それは多分、体調の辛さだけでなく、不安や索漠とした心情や、自身が置かれた隔絶された環境が醸し出す雰囲気にもよるのだろう。

受付の椅子に座って、体を起こしておくこもできずに、机に腕と体を投げ出すようにして突っ伏している、そんな辛そうな療養者を見れば、同情のあまり声をかけたくなる。
「大丈夫ですか?水か何かお持ちしましょうか?」と。
だが、この場の私にそのような声をかける資格はない気がした。

コロナは、日本という社会の共同体の成員を、孤立した個人として分断してしまうらしい。本来の微生物学的なウイルスの危険性とは別に、自身の行動により、誰かをコロナにしてしまうというのは、自身があたかも穢れであるかのような錯覚をもたらし、人と関わることに本能的な恐れを抱かせるのかもしれない。
たとえ、相手もコロナ患者で、医科学的に気にする必要がなかったとしても、私は声をかけることができなかった。それは私がすべきではない、コロナに感染していない健康な医療スタッフがすべきことだ。なぜか私はそう感じていた。だが、窓越しに見ている医療スタッフは感染を恐れてこちらには来ない。あちらとこちらの世界は透明な窓を隔てて厳然と隔絶されている。

SDGsとは持続可能な開発目標という意味らしい。
ホームページによれば、今に至るも解決を見ない、貧困や飢餓、紛争などの問題、あるいは限られたリソースしかない社会の維持のため、みんなで努力しましょうということらしい。

崇高で高邁な目標の言明ではある。
いずれにせよ、いかに力があっても1人だけでできることではない。
そう、孤立して分断された個人は無力だ。
まして社会的に凶悪とされるウイルスに、身体が冒されていて、自分を守ることで精一杯な矮小な個人にとって、SDGsも何もありはしない。目の前にいる辛そうな人に声もかけられない状態で、向こうの世界の貧困や飢餓をどうにかできるわけもない。

つまり、まずは、自身が自立すること。
精神的、肉体的、経済的な自立。
それがなければ何も始められない。
その上で、向こうの世界に入っていかなければならない。

そうして、指一本でもいい、窓を開けて、向こうの世界に手を差し込んで、自身ができるわずかな余剰を向こうの世界に渡す。それが個人としてやれることの限界ではないかと思う。

部屋に戻れば、有名ホテルの室内はSDGsが声高に叫ばれていた。
「SDGsの観点から、ベッドのシーツを毎日取り替えることはしません。」
「SDGsの観点から、当ホテルでは卵形の湯船を採用し、節水に取り組んでいます。湯量をこの位置までにすることにご協力ください。」
「SDGsの観点から、コンパクトな客室にすることで、空調によるエネルギーの浪費を抑える取り組みを実施しています。」
一言一句同じではないが、だいたいそのような主旨のことが書かれていた。

それは事実なのかもしれない。

いや、きっと本心から取り組んでいることなのだろう。
社会の公器として、高邁で崇高な目標実現のために、一法人として取り組んでいることなんだろう。
だが、社会の中で無力に分断され、自身のことで精一杯な個人には、それはお題目にしか聞こえない。向こう側の世界には指一本触れることなく、こちら側からお題目を唱えているだけ。単に経費を抑えたいから、SDGsを言い訳に使っているだけ。

崇高な目的のために、みんな少しだけ我慢しましょうね。レジ袋は3円です。

社会的、経済的地位、権力には義務が伴う。それがロイヤルデューティーであれノブレスオブリージュであれ、その義務としてSDGsに取り組んでいますか?ホンネを隠すタテマエとしてSDGsを利用しているだけではありませんか?その取り組みで利用者に不便を強いて、節約して得た利益はSDGsの目標の実現のために還元したのですか?そもそも窓をあけて、向こう側の世界に何かを渡しましたか?

私の好きな小説の一節に”祈りというものは、真実の声でなければ届かない”という表現がある。

私にはあなた方が声高に叫ぶSDGsが真実の声であるとは思えない。
それは私の偏狭な主観に過ぎないけれど、この国でとても有名なそのホテルが私には信用できないことは本当に残念だけど、あなた方のSDGsはお題目にしか聞こえない、だからまったく響かない。

だけどこの疲弊した世界は待ってはくれない。ならば、私は私の信じるSDGsに取り組みたいと思う。

自らが自立し、向こう側の世界に手を伸ばす。そしてささやかな余剰を、辛そうな人に渡す。

それが私のSDGsだ。


#未来のためにできること

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