『未来からの手紙 § エチカ~楽園』

天と地の間には人智の及ばぬことがまだまだある。 
                                                    __ウィリアム・シェイクスピア

                 *


青いインクを垂らしたような、うそみたいに澄みきった海が眼下に広がる。そのどこまでも穏やかな水面に裾野をひたし、険しい姿を空へと向ける火山島。いにしえの楽園の息づかいを、対象的な表情に晴れ晴れとひびかせる鳥瞰図。

フレンチポリネシアか…。
子どものころぼくは冒険家に憧れた。トム・ソーヤにはじまり、広大な領域に道なき道をひらいたローマの名将たち。そして、タヒチ島の歴史を欧米諸国にひらいた航海者キャプテン・クック。
けれども、最初にこの地を踏んだのは18世紀、新たな発見と征服の任務を命じられ太平洋へ派遣されたイギリスとフランスの海軍たちだった。先手を切ったのは、ほんの3ヶ月の差で英サミュエル・ウォリス大尉率いる一行。

当時のタヒチの人々の暮らしは、衣食住のすべてが必要最低限のもので満たされていた。熱帯の風土の中、タロイモやバナナなどの青果類は手放しでもよく育ち、海は海でひねもすマグロやメカジキが豊富にあがる。島の内奥にある高い山からは清らかな真水がふんだんに流れ出し、歌い踊り、レスリングや竹馬とよく遊ぶ島民たちの日常を潤した。

その光景は、すでに文明の蜜と毒の作用にまみれた西洋人にとって、まさに地上の楽園に映ったに違いない。こと、女性たちのくったくない笑顔と奔放な肉体美は、長い航海で潰えた若い水兵たちにあまい夢を見させたことだろう。

そんな印象から当初の見聞では、島の社会は道徳も法律も持たず純粋に本能的な行動によって成り立っている、との報告にとどまる。
しかし、それが如何にうがった見方だったかが、後のクックによる丹念な調査により明らかにされた。

実際のタヒチの社会は、徹底した貴族政治が敷かれていたからだ。
支配層は完全に世襲制。決して平民が身分の枠を越えられることはなかった。とはいえ、圧制や過剰な搾取が行われていたわけではない。歴史のなかに戦争もあったが、小競り合い程度で、戦闘の多くは一騎打ちスタイル。戦士に許された武器は木の槍や石のみ。それは、西洋にも古くにはあった騎士道精神そのものだった。

フランスの知的巨人ロジェ・カイヨワは、理想だけを標榜する社会の風潮に対し、そもそも人間の本質に争いは含まれる、と内冑を見透かした。であるなら、最小限の衝突を認めることは、均衡を保つためには却って必要なことのかもしれない。
楽園の呼吸は、どんな生命をも受け入れる自然の寛容さと両輪に、人智の敷いた徹底したルールが、圧することなく血液のように循環していたからこそのびやかに機能していた。それは決して、人類が理想郷とした、完全なる自由と平等に立脚した楽園の姿ではなかった。見た目の奔放と内実の厳格とが相まって夢を醸成していたのだ。

ぼくは、パペーテに着陸するまでの数分、眺望絶佳を味わいながら手放した会社のことやこれからの組織の在り方‥つまり自分自身の在り方に、そんな夢想を重ねていた。___ひょっとしたら、矛盾を矛盾のままに両立する妙術こそが、楽園を生むのかもしれない‥。

そうして空港に降り立ち、あまねく甘いティアレの香りに包まれた途端、半ば置いてけぼりだった心も多くのことを忘れ、この地を踏んだのだった。

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◎ 前回まではコチラです◎
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(1) シャークの森 (2) FLY!FLY!FLY! (3) 空間と体は切り離されてはいない
(4) 運命 (5) 涙の種 (6) きずな (7) 体は何も忘れてない (8) 感情を感情のままに (9) 運命Ⅱ (10)胎動 i (11) 胎動 ii (12) 出航   

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〈タヒチ2日目〉

エルダはがっかりしていたが、今日は無理に飛ばないほうがいい、というインストラクターのアドバイスに従いボートは岸へUターン。ぼやけた体に潮風が心地好くあたる。ふと、澄みきったマリンブルーに視線をおとすと、並走するようにマンタが泳いでいく、悠々と…。ぼくは束の間ついさっきまでいた世界に思いを馳せた。

やがてボートは速度を緩め、ゆったりとラグーンを滑り白く輝く砂浜に到着。ぼくらは何の迷いもなく椰子の木陰で横になった。__あまりに王道の画のなかに当たり前に酔ってしまえるのが、楽園のチカラなのだ。
しばらくすると、あのりゅうりゅうキンニくんが、絞りたてのアナナジュース(パイナップル)を運んできてくれた。 その濃厚さと甘酸っぱさといったら、南国の光を鮮やかなイエローにぎゅっと束ねた生命力のほとばしりで、視界がぱっとひらける感覚がした。そして滞在中、もしコンディションが回復したらまたボートを出すぜ、とりゅうりゅうきんにくんが言ってくれたので、ぼくは胸を張り笑顔で大きくうなずいてみせた。 

陽も翳り、落ち着きをとりもどした大気が砂浜に沈むころ、水平線がみるみるガーネットに染まった。それに呼応するように、コバルトに凪いだ海原が赤紫に変化する。世界が、若い葡萄酒の透きとおった球体につつまれたようだった。
___地球ってほんとにまあるいんだな…。
空も海も山も…同じ色のなかにほどけ、境い目をなくす只中にいて素直にそう思った。
無茶はしたもののエルダの提案に乗ってほんとによかった…。
いくらハネムーンといったって、こんな時にさすがにタヒチはないだろ、と乗り気になれなかったぼくにエルダはこう説得。「風向きがよくないときは、思いっきり季節を変えるといいらしいよ。」おばあちゃんの受け売りだと。
季節を変えるとは、はたしてそういう意味なのか?とツッコミたくもなったが、たしかにあのままリスタートを切っていたとしても、早晩エンストしていたに違いない。この島の、瑞々しい光をくまなく浴び、プラーナをからだいっぱいに吸い込んでリセットする必要があったのだ。そのことをエルダは知っていた。ぼく以上に。

アナナジュースが胃に程よい刺激を与えてくれたのか、その夜は久しぶりに食欲がわいた。水上テラスのセンス良くライトアップされた極上のもてなしにエルダのテンションもあがり、ふたり上機嫌でプライベートディナーを堪能。焼きたてのシーフードやビーフにソースのからみがいちいち絶妙で猛烈にうまかった。さすがはフランス領。食にうるさいエルダの舌もチーズとワインの豊富さにご満悦。いにしえの冒険家が、この島に西洋の洗練と醜悪をともに持ち込んだとはいえ、このときばかりは歴史に感謝した。人間って本当、都合がいい生きものだ。
そうやって身も心も、日常からかけ離れたリズムに時を刻みはじめたころ、ほろ酔い調子でエルダがこう聞いてきた。

そいえばさ、レディマンタってなに?

いけない…。そんなことを起きぬけにつぶやいたのか?
うん、確かに言った…な。何もやましいことはないが新婚旅行でレディはマズイ。妙な誤解を避けるためにも、ぼくはあの夢のような夢でないような体験を思い出せる限りエルダに話した。

「でもさ、フシギなんだよ。海も川も林も森もあるのに人工物がいっさいないの。鉄塔も橋もないんだよ…。」

エルダの心に、微塵の誤解も残してない、と安堵したところでそうこぼすと、やや食い気味に納得の回答が飛んできた。

「エチカ、それって “ひっこヌッキー” の世界じゃん?!」

言われてみればそうだった。
“ひっこヌッキー” とは、ぼくが大学時代、はじめて遊びでつくったアプリの仮称。

簡単に説明しておくと、地球上にある人工物をどんどん引っこ抜いていくというシンプルなもの。たとえば電柱などに指をあて、上へスワイプさせるとシュインッと抜ける。ただ、スワイプがあまいとうまく引っこ抜けない。対象物を引っこ抜けるのはワンゲームに一度きり。うまく更地に戻せると、そこは楽…っと、長くなるので詳細は割愛するとして。
仲間うちではストレス解消になるとけっこう評判が良かった。実は、この“ひっこヌッキー” をベースに、段階的にゲーム性を多様化していくプロジェクトを進めていた矢先だったのだ。例のバグ&持ち逃げ事件が発覚したのは


エルダが、大きな瞳をきらきらさせ嬉しそうにぼくの顔を覗きこみ言った。

「エチカ、気づいてる? それよりフシギなことがあるよ。」

ぼくが首を傾げ、ん?となぞなぞを解くような表情をすると、

わたしが “ダメ ” って言っても、今日エチカまったく反応してないよ。」

「まぢ??? まったく気づいてなかった!」

その通り、ぼくは日頃エルダが何気なく使う “ダメ” というワードに対しても過剰に反応していた。それで何度ケンカになったことか。あの岩面にだって、このワードを使われると冷静でいられなくなり、必要以上に口調を荒げた。

「でも良かった、話してくれて…。エチカがお父さんとの間にそんな辛い思い出を抱えていたなんて知らなかったから…。わたし、ちょっと気になってたんだ。時々さ、夢でうなされてたんだよ。すっごく苦しそうだった。モゴモゴ何言ってるかはわかんなかったけどw」

「へっ!? 気づかれてないとおもってたよw」

「寝汗でびっしょりだったよw  ほんと夢ってフシギだね。ときどき現実以上に心動かされることってない?」

「ある!中学のころさ、まったく意識してなかったクラスの女の子に夢ん中で告られたの。そしたら翌日顔見ただけでやけにドキドキしちゃってさw 」

「あるある! わたしはニュースキャスターのおじさんw 夢の中ですごく紳士な対応でめちゃ優しいの。しばらくその番組観るようになっちゃったもんw」

「なにそれw  今回のもさ、見てる世界はシュールなんだけど妙にリアルなんだよ、感覚だけは。…おしゃべり鮫とのやりとりで、ずうーと胸あったつっかえのようなものが少しやわらいだ気がすんだよね。」

「うん。なんか目元がちがう。」

「え!?そう?」

「穏やかになったよ。」

ぼくは内心、ニュースキャスターの夢が気になりながらもさらっと流した。するとエルダが妙なことを話しはじめた。

「ばあちゃんが言ってた。たとえ夢でもうつつでも、いま目の前にあること全てがまるごと体験だって。ひょっとして荘子もさ、胡蝶の夢をそんなつもりでつぶやいたのかなぁ。どっちの夢とかうつつとか、はっきりさせたかったんじゃなくて。」

「ん?なんでいきなり荘子?」

ぼくはエルダに、おしゃべり鮫とそんな話しをしたことは言ってなかったからだ。

「ん?なんとなく。そうそう、うちのばあちゃんさ、ほら、盲目なっちゃったじゃない?人生の途中から。それからわたしの手を握るとなんでも分かっちゃう、っていうの。バレエのコンクールに怪我して出れなくなったとき、泣いていたわたしの手をそっと取って、“エルダの魂は、舞台で踊るよりもお友だちと踊りたがってるわね”っていうのね。そのときは、悔しさでいっぱいだったから慰めくらいにしか思わなかったけど、わたし後になってふと気づいたんだ。プロのバレリーナになりたかったのは、ほんとはわたしじゃなく、ママの夢だったんだって。ママが叶えられなかった夢を幼いわたしに託したんだって。もちろん、悪気なくだけどね。」

「踊ってた、ってのは前に聞いたことあったけど、そんな本格的にやってたんだ!?」

「そだよ。友だちと遊びたくても好きに遊ばせてもらえなかったw 毎日毎日レッスンあって。でもね、かわいいチュチュつけて舞台に立つでしょ。そしたら大人たちがニコニコして注目してくれるんだ。その感じがすっごく嬉しかったの。
でも…怪我してしばらく入院してたとき、どっか気持が楽だったんだよね。友だちがお見舞いに来てくれて、ふつ~にお菓子とか食べて、シール交換したりとかしてさ。ただそれだけなのに、めちゃ楽しくてしょうがなかったの。」

「わかるわ‥。こどもってさ、そうやって親が喜んでる顔見たりすると、期待にこたえたくなちゃうんだよな。無意識のうちに…。」

「そうそう。わたしほんと、そんときまでは何の疑いもなく、じぶんがやりたくてバレエやってる、って思ってたもん。親の夢を受け継いですんなりいっちゃうこもいるし、それが良いとか悪いじゃなくて、たまたまわたしはじぶんの本音に気づくきっかけになった、ってことだけどね。」

「そうなんだ…。けっこうさ、知らないことあるね、互いにw」

「ねw」

「それにしても、エルダのおばあちゃんすごいよな。失明して不自由な生活してるのにニコニコしてた。あんとき、ほら、エルダんち行ったじゃん?一緒に住むって決めたとき。その印象が強く残ってさ、ふつうに目が見えてる人よりも、世界が明るいんじゃないかって思えたよ。」

「そうなの。キャラ的には目が見えていたときと全く変わんない。まぁもちろん、じいちゃんの真摯な支えもあってのことなんだろうけど。わたし、ばあちゃんこだったからさ、親以上に何でも話してた…。それで見透かされちゃうのかもしれないけどw  でさ、ばあちゃん言ってたんだよ。あの日、別れ際にエチカの手、触ったでしょ?お土産渡しながら。」

「そうだったけ?」

「覚えてないの?!」

「ごめんw...。や、あんときえらく緊張しちゃってて。エルダのご両親に会うのもはじめてだったし。しかも、いきなり実家だったでしょw」

「まぁねw しかもエチカ、心ここにあらず…って感じだったもんねぇ〜」

「ん…;だったかもね;あの頃仕事のことでアタマいっぱいだったからなぁ。」

「だよねw  でね、後でばっちゃんエチカのことこう言ってたの。“ あのこ、軽く見せてるけどちゃんと考えてるこよ ”って。 “ でも少し、じぶんを信じきれてないところがあるわね ”って。 で、あ、なんだっけ‥ そっ!正確ではないかもだけど、体の中の光のありかが見つかったらきっと高く飛べるこよ、みたいなこと言ってた!」

「え!?おばあちゃん、そんなこと言ってくれてたの?」

「うん。それで、体の中の光ってなに?って聞いたら、“ 全てが過程で今が全て。どう転んでも大丈夫しかあり得ない。ってことよ ” って。これだけははっきり覚えてる。」

「ん?‥大丈夫しかあり得ない?!なんだか呪文みたいだなw」

「そ。だからわたしね、あのチョコのことは忘れることにしたの。って、覚えてるから話してんだけどさw」

「何?チョコって!?」

ぼくはまるきり忘れていた。
エルダの弁によると、例の経理の美人が義理でくれたと思っていたチョコは、まぢチョコだったらしい…。忙しさに紛れてリビングに置いたままにしていた手提げ袋…。 エルダに “ コレなに〜??? ” って聞かれて、ぼくは “ あぁ会社のコにもらった、てきとうに食べて〜 ” とこたえたらしい。それも全く覚えていない…。
エルダは開けてビックリ、携帯番号を書いたメッセージカードが入っていたのだという。あの頃は、連日夜あけることも多く、そのことをきっかけに浮気疑惑が深まりはじめたのだと。
なんともはや…。エルダのおばあちゃんの予言者めいたフォローがなければ、このハネムーンも儚い夢と化していたかもしれない‥。
そういえばムカシ、遊び半分でみてもらった占い師に言われたことがあった。女難の相が出てると。が、一方で、ぼくはなんだかんだ女の人に救われてるように思う。母がくれたあのLINEにだって・・・。

「ふぅ‥。そうだったんだ‥。」ぼくはじぶんの至らなさに情けなくなり、大きな溜息をついた。

「自業自得だな‥。しかも仲間にまで迷惑かけちゃって‥。」

「そういう無頓着さが、わたし、エチカの好きなところでもあるんだけどねw」

「何がいいのさ〜。危うくエルダにまで距離を置かれるところだったんだよ!それに‥せめて袋を開けて見るくらいの余裕があれば、直接は何もできなくても、ホワイトデーに日頃の労いでスタッフみんなにプレゼントするとか、相手に気を持たせずこちらの意思を伝えることだって出来たのかもしれない‥。」

「わたしもカード入ってたこと、ちゃんと話せばよかったんだけど‥。エチカ帰ってこないし電話もままならないしでカチンときちゃって。でもまさか、あんなことになるなんて‥。女ってやっぱ、大切に思ってたひとに無下に扱われると根に持っちゃったりするもんだし。彼女、きっと深く傷ついたんだと思う。だって立ち上げ当初から支えてくれてたんでしょ、予算にひぃひぃ言ってたときから‥。それなのに何の反応もないって、じぶんの存在消されたくらいに悲しくなっちゃったんだろうな‥。ま、たとえそうであったとしても、その感情とどう付き合うが運命の分かれ道なんだけど。何れにせよ、わたしが同じ女として、ちゃんとエチカに伝えるくらいのフォローはするべきだったなぁて‥。だからね、わたしも自分自身に投資する覚悟でもって、エチカのこれからに投資するって決めたの!

「エルダはなんも悪くないよ。プロジェクトを成功させるのに必死で周りのことがよく見えてなかったぼくの責任だ。その代償に高い勉強料を払ったんだと思ってる。もちろん気持ちは嬉しいけど、大丈夫!マイナスからだけど一歩一歩やるよ!だけどこれから、女性への対応ついては、エルダの好きなジュリアス・シーザーに学ばないといけないねw」

「それはダメ〜!w いくら今のフランスがあるのが、名将カエサルの果敢な遠征のお陰だとしても、エチカに人たらしにはなってほしくないもん!」

「おいおい、人たらしって!w  でも憧れちゃうよ〜。あんなにモテヲだったのに、どの女からも恨まれなかったんだぜ。もちろん男としての魅力もあったんだろうけど、人の機微を察する能力にめちゃ長けてたんだろうな。あの戦乱の世に、言葉1つで兵士の士気をあげてルビコンを渡させちゃったんだから。」

「でも最後、暗殺されちゃうじゃん!」

「だったねw」

ぼくは笑いながらも、胸の底から熱いものがこみあげてくるのを感じていた。

エルダはそれでもぼくを信じてくれた‥。
必ず、この信頼にこたえてみせる。

天高く三日月が、黒々と艶めくラグーンの水面に冴えた光を真っすぐに降ろし、夜の大気を輝かせていた。

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つづく

本日も💛 最後までお読みいただきありがとうございます☺︎