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#57577デザイン室④

 翌日が仕事の日は、寝る前に明日のお弁当はどうしようか考える。空いた時間があれば、お漬物や簡単なおやつなどを作って冷蔵庫にしまっておく。朝起きたら、お湯を沸かしてお米を研ぎ、お弁当を作って夕食の下ごしらえをする。人から感心されることもあるのだが、本人としては大変なことをしているつもりは全くない。料理は、だいたい歯磨きやお風呂と同じくらいの感覚で、よほど疲れているときでもなければ自動的に出来る。自分が食べるだけなのでかなりいい加減だし、他の家事は全く出来ないので、家政婦には到底なれないと思う。

 短歌をつくりはじめて4年くらいになるが、わたしの中で短歌と料理は少し似ているような気がする。ほぼ毎日うたの日に出しているので、お題を見て投稿するのはほとんどルーティーンのようになっていて、それ以外でもつくりたいと思ったときにつくる。なんでつくってるんだろう、なんで短歌なんだろう、とか考えないこともないのだが、はっきりした答えは出ない。なんとなくつくっている、としか言えない。

 先週の#57577デザイン室では、それぞれの卒業制作に向けて、あららさんと参加メンバー全員が意見を出し合うということをやった。大きな声では言えない(けれどここに書く)が、卒業制作の進捗についてわたしが一番遅く、ほとんど何も決まっていない状態だった。他のメンバーの足を引っ張って迷惑をかけてしまうようで、いっそリタイアした方がいいのかもしれないと考えていたのだが、言い出す勇気もなくてそのまま参加した。わたしの番になったとき、あららさんに、「えんどうさんはどうしたいのかが見えない」と言われて、確かにそうかもしれないと思った。だって自分でも今ひとつはっきりしないのだ。わたしは短歌で何が言いたいのか、誰に届けたいのか、それにはどういう形がいいのか? 短歌が好きかという問いにも自信をもってイエスと答えることができない。もちろん決して嫌いではないけれども、うーん、好きなのだろうか。わたしよりずっと短歌のことを好きそうに見える人はたくさんいる。それに、わたしは明日も明後日も来年も百年後も好きでいられるもの(人)のことしか好きと言いたくないのだ。好きになったら嫌いになりたくない。離れることが怖ろしい。嫌いになることは、それを好きだった自分まで否定することになりそうだと思う。だから、簡単に好きだなんて言えない。

 わたしはこういう暑苦しい、面倒くさい考え方をしているので、考えていること、言いたいことは短い定型に当てはめて表現した方がまだ鬱陶しくなくていいのかもしれない。小さいときから大人しい、無口な子だと言われていたけれど、本当はたくさん言いたいことがあった。もしかして短歌だったらうまく言えそうだと思ったのかもしれない。三十一音の短い言葉を上手に使えば、誰かに届けられるかもしれないし、受け取ってもらえるかもしれない、と。ではそれを、どういうパッケージにするのが、あるいはどういう器に盛るのが相応しいのだろうか。

 ずっと考えている。たぶん#57577デザイン室が終わってからも考えている。それだけでも、参加した意義は充分にあったと思う。そんな貴重な集まりも、あと一回で終わってしまう。

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