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目立つということ

三沢邦夫 



人にはそれぞれタイプがあるが目立つ人そうでない人、それだけではないがこんなふうに分けることが出来る。何もしなくても、そこにいるだけで存在感がある人、又は大勢の中に埋もれて地味な人、このように分けることができる。 良い悪いではない。何故そうなるのか、持って生まれたもの、それだけではないが要素としては大きい。

昔高校生の頃、隣町にとある有名作家の家があった。その作家とは随所で会ったし、人ずてにあそこが家だと聞いていた。
ある日その家の前を通ると小学生位の男の子がしゃがみ込んでいた。私はひと目見て作家の御子息だと確信した。
たたずまいが違うのだ、他の小学生とは。
後でわかったが事実その通りだった。
その時少年は所在なさげに座り込んでいたが、存在感が傑出していた。幼くして纏う雰囲気が違うのだ。かえるの子はかえるである。
私は持っていた物を手渡した、お菓子かおもちゃか何だったかわすれたが親愛の情をこめて。
突然見ず知らずの他人にいきなりそんなものを渡されても困ると今なら思うが、その時の私はいちファンとしてオーラに気圧されてそのような行動に出てしまった。何かをしたい、関わりを持ちたいと言うミーハー的思いでそうしてしまった。実際その子はどう対処していいか困って固まっていた。だが受け入れざるを得ない。もらうしかないのだ。事実そうした。

一瞬だけでもそうしたことに対する私の躊躇はなかった。私はその作家を尊敬していた。地元の名士として崇めていたのだ。その後少年は有名私立中高校へ進み、その縁からか父であるその作家は高校の校歌を作成し、そして後に少年は作家になった。半世紀も前のこと、遠い昔の思い出である。

目立つにも色々ある。良く目立つなら良いがそうでない場合もある。美男美女で目立つ人がいる。それで皆喜んでいるかといえばそうばかりでもない。美形で目立つが人前に出たがらない人もいる。性格なのだろう。うまくいかないものだが、えてしてそんなものなのかもしれない。

美人に生まれついた為高校生の頃、担任の男性教師に人生狂わされた女性がいた。そうすると何が幸せか分からない。なまじ美女であったが為なのか、それだけではないにしても数奇な運名とでも言うのか哀れである。
過ぎたるは及ばざるが如しである。幸せの定義は人それぞれ違うものであり、幸せというのは案外身近にあるもので気が付かないだけかもしれない。青い鳥しかり。

人間は生まれながらにして平等というがそんなことはない。教育上そのほうが与しやすいのでそうしてるんだろう。場合によっては違いは子供の頃から顕著だ。

ゲノム研究が進んで人の未来は解析されつつある。反面解ってしまっては味気ないし面白味がない。将来が危ぶまれる場合に限って使ったら良い。

利用の是非が問われる。



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