8/13 もうそこに僕はいないだろうと思ったら、全然いた。

https://note.com/clever_azalea586/n/n2fff85ba6e50

先月末、こういう記事を書いた。旧友との思い出だ。

僕は彼のことを覚えていて、その思い出をいっぱい書いたけど、彼はきっと僕のことを覚えていない、という記事だった。

その彼を昨日、見かけたのだ。

地元の大きなお祭りの、有象無象の人々が喧騒を起こしながら続々に通る、普段は退屈そのものなシャッター街の、その通りすがりだった。

僕は彼が元気と見て、声もかけずに素通りした。

そしたら今日、弟が彼に声を掛けた。

そしたら彼は弟も、そして僕のことも覚えていた。

彼はいつも通りの猫背で、少し明るくなった声色以外は何も変わらないままの、不登校していたのになんの引け目も感じていない、それでいい、そのままの、あいつがいたのである。

いろんなことを話した。彼にもいろんなことがあった。僕がいない間も当然彼は彼の人生があるのだ。僕はその事実を改めて突きつけられながらも、それを知り嬉しくなった。

今日両親も入れて馬鹿騒ぎした。明日も来る。

人生はおれを感傷的にさせてばかりだけど、時々逆転させてくれる。その事実を忘れて、人生はクソそのものと思ってしまって、なんならクソみてえなことには変わりないのだけど、そうじゃないよと教えてくれるチャンスがいくつもあって、掴み取るときもあれば逃してしまう時もある。あの時通りすがったのに話しかけられなかった、昨日のおれだってそうだ。でも弟のおかげでそうじゃなくなった。ラッキーだ。人生はそれらの選択だ。あの時ああしていれば。

僕も、あのnoteを書いて、彼について考えることが増えた。そのおかげで、結果的には彼と会うことを選択した。この選択が正解であると、つまりは一生続く縁であれば良いなと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?