最初に殺したマリオと死なないワリオ

最初に殺したマリオと死なないワリオ

ファミコンで最初に遊んだソフトはスーパーマリオブラザーズ3で、はじめて穴に落ちてマリオが死んでしまった時の感覚を覚えている。思えば去年バンジージャンプで「あ、死ぬかも」と思った時と同じ感じだった。落ちて死ぬ、という感覚、落として殺してしまった、ではなく当人事として感じていた。

あれから何万人というマリオを殺し、APEXで5000人を殺し、ゲームの中での生死に対して心が動かなくなってしまった。予定調和というか、こうしたらこう死ぬみたいなのがわかってしまって、はるか遠くの他人事として見ている。

小さな劇団の小物で必ず出てくるのが銃だ。生と死をドラマとして感情を揺さぶる装置として分かりやすく使っているケース事が多いと思う。

死ぬ、ということはドラマチックだ。本来人生に一度しか起こらないことだからだ。しかし何万回も記号として使いまわされた死はもはや本来の重大な意味合いを失ってしまっている。

死ぬ、一度きり、というゲームが前に話題になった。You Only live once という横スクロールのFlashゲームだ。Flashなのでまだ遊べるかはわからない。調べてみたら2009年のことだった。

最近、Nintendo Onlineでゲームボーイのソフトが遊べるようになった。初代ワリオを遊んでみて、ワリオが死なない事にちょっと嬉しくなってしまった。ワリオは丈夫なので敵に槍で突かれても死なない。ゾンビにされても光に当たれば元に戻るし、ハンマーでぺちゃんこに潰されても、コミカルなバネワリオになるだけで死んだりはしない。コレは良い意味で予想を裏切ってきて嬉しい。なんで嬉しいんだろう。多分、マリオを自分の操作で殺すことに実はまだ罪悪感を心の奥底でうっすら感じていて、「あっまた殺してしまった」と思った所に死なないワリオが出てきた事で、死なないヒーローに頼もしさを感じた、みたいなことだろうか。

Mナイトシャマラン監督の映画にアンブレイカブル、という作品がある。普通に勤めていた警備員が実は不死身で彼が自分の能力や運命を呪いながらも巻き込まれながらヒーローとして目覚めていくという話だ。

不死身のヒーロー、ワリオは見た目は不細工だが不死身の安心感がある。もう死を消費するゲームは疲れた。ワリオ、いいぜ。

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