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絶景飽和時代

※今回の記事は少し攻撃的な内容になっています。

最近思うのが、もうSNSでは絶景写真の飽和が来ているのではないかということだ。綺麗な星景写真も、海外の絶景も、極地など秘境の写真も毎日何件も見かける。自分の感度が低いのもあるかもしれないが、こんなにも絶景写真が手軽に見れてしまうと正直もう感動しない。いかにその写真が凄くてもだ。
 タイムライン上で投稿を閲覧するなら尚更で、一瞬目に止まっても、すぐに別の投稿が目に入ってくる。つまり、絶景写真をみた後に、すぐに別の絶景写真に目がいくということもあり得るわけである。さらにTwitterなどでは、写真を添付しない投稿(写真とは全く関係のない投稿)も流れてくるので、その中でぽっと絶景写真があっても…なという感じである。このシステムは、写真家の世界観を構築するのには非常に不向きだと思う。個展や写真集のように、その写真家の写真だけに浸れる空間が形成されない。つまり、絶景写真に付加価値をつける写真家の世界観が見えづらくなっており、せっかくの絶景写真が単なる消費物になってしまっている。
 それともう一つ言っておきたいのが、絶景再現写真(いわゆるどこかで見たような絶景写真)がとても多いということ。写真は一瞬を切り取るので、完璧に同じ写真は撮れないが、にしても同じ場所で同じ構図で撮れられた写真が非常に多い。これもSNSが普及したことによる現象ではないかと考える(自分が写真を始めてから数年の尺度で考えているので、前からこのような現象は存在したかもしれない)。ある人が投稿した絶景風景写真(オリジナル)がバズったとする。オリジナルは瞬く間に多くの人々に広がり、やがてそれを真似したいという人物が出てくる。それを真似した人物が写真を投稿すると、またバズる。そして別の人がまた真似をして…というループが完成する。これがやがて定番構図として完成され、オリジナルは埋もれ、絶景再現写真が溢れかえる。意図的に他の人の写真を真似て、お手本をなぞるように写真を撮っている人は、それで楽しいのかな?と天邪鬼の私は純粋に疑問である。
 かくいう私も定番構図を意図して撮影することもあるが、それでも自分の視点を大事にして、他のカットもたくさん撮る(ここの詳しい部分はまた後日)。たまに投稿のほとんどが絶景再現写真の人を見かけるが、なんだかSNS向けに撮った感がぷんぷんして苦手だ(こんなことを言っているので、きっとSNS戦略的には私は向いていないのだろう)。自分は人の写真を真似て再現することに関しては、あまり楽しみを感じない人間なので再現写真家の人のことはよくわからない。

まあ何にせよ、絶景写真というものが簡単に扱われる世の中であることには変わりはない。自分も含めて今一度絶景との向き合い方を考えていきたい。



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