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No.30 魚釣りから考える肉食と殺生 その8 まとめ(魚釣りと殺生)

 これまで7回に渡り、魚釣りについて考える上で、殺生の問題と肉食という問題に絞って、仏教の歴史をざっと見てきました。長かった、、、。本稿でまとめとしますが、あまりはっきりしたことは言えそうにありません。ご勘弁ください。

・購うという行為の是非

 お金で購うことについても実は大事な点でしたが、そこまで確認できませんでした。お金で買ったお肉は三種浄肉(見ていない、聞いていない、知っていない)なのか?という点です。おそらく、購入は市場・漁師・酪農家への要求行為であることから、三種浄肉などとは言えない。ただ、布施として金銭を受け取ることはインド以来してきている。だから、昔のお寺では「お手伝いさん」に頼んだんでしょう。その方が献立を考え、布施のお金で買い物し、調理をするなら、三種浄肉と辛うじて言えたのかもしれません。とはいえ、現代ではお手伝いさんに頼むなんて余裕はありませんし、配偶者にその任を担わせるなんてのも時代遅れです。そもそも浄土真宗は坊守さんも僧籍とること推奨されてますし。その意味で、外食とか本当はもってのほかなんでしょうねえ。。。
 この点の歴史についても、宿題として今後も調べ、考えたいと思います。

・復習

 仏教の出発点では肉食と殺生は別々でした。肉食は禁じられてはいなかった。しかし、いのちを奪うことを是としなかったことから、肉食は禁じられるようになってきました。中国でそれが明確になり、日本にも伝わった。そして、日本においてはいのちを奪うことを良くないとしながらも、僧侶の肉食は容認されるようになります。
 現代の日本人意識の上では肉食はイコール殺生です。これは他ならぬ仏教が作り上げてきた感覚です。むしろ、肉食しているけれども殺生はしていない、と言うほうが強弁に聞こえます。魚について言うなら、殺生という悪業を漁師に押し付けている姿になるからです。

・魚釣りを考える

 では最後に、本稿の出発点である魚釣りに話を戻します。魚釣りが殺生という悪業であることには異論はありません。さらに、遊びとして、楽しみとして殺生を行う行為です。だから止めておきましょうというのは、当然なのかもしれません。一方で、魚釣りをしなくても、魚を食べている時点で私たちが悪業を重ねていることには違わない。
 
 結局、魚釣りについてはっきりしたことは言えませんが、魚釣りをする・しないに関係なく「いのちをいただいている」ことに意識が行くようにする工夫が必要かもしれないと、整理する中で感じました。月に一度はお精進という機会をつくる、みたいな。これは、なんか楽しめそうです。

 また、昔、食卓でご飯を食べ終え、「ごちそうさまでした」と言ったら、父が「よろしおあがり」と言っていました。残さず食べた際に言われていたように思います。「よくしっかり食べましたね」ぐらいの意味だったのでしょうか。今思えば、大切な言葉だったかもしれません。

 いのちを頂いているという地に立ちながら、悪業を重ねているという点を踏まえながら、お念仏して阿弥陀仏に救われてゆく歩みをする、それが浄土真宗の門徒という生き方です。しかしながら、なんでもいいねんとせずに少なくとも「残さない」とか「無駄にしない」というところは大切にしたいなと思います。

 本シリーズへの長らくのお付き合いありがとうございました。 

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