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No,23 魚釣りから考える肉食と殺生 その1 学びのきっかけ 

・はじめに

 2年半前の2021年の夏、コロナ禍真っ只中、室内でのレクリエーションが敬遠されていたこともあり、子どもたちと一緒に魚釣りに行けたらいいなと考えました。
 自分たちが普段食べている魚が、どのように海にいて、どのように捕り、どのように持ち帰って捌き、どのように食事としていただくのか、そのことを考える契機となるなら、楽しみとしてはもちろんながら、子どもたちの食育にもなると考えたからです。

息子と海釣り公園にて

・「殺生やん」の一言から

 ところが、若手僧侶連中と話している際に、「うちは魚釣りはできない。殺生やから。」と言われたことで、少し考えたことがありました。
 その時は、少なくとも食べるための魚を釣りに行く、キャッチアンドリリースの釣りの様な遊びとしてだけの釣りはしない点を抑えることで考えをまとめた経緯があります。魚釣りが殺生であることは間違いない。それでも普段から魚を食べている(肉食:にくじき)ことから、殺生をしているという点では違わないと思えましたから。

釣ったアジとサヨリの一夜干し

・学びのきっかけとして

 このことを寺院関係の方々と話す中、相談する中で、やはりズレが生じていることが感じられました。多くの方に殺生だからよくない、と言われます。わからない。そして、よく考えたら私自身が戒律や肉食の歴史をきちんと整理できていないことに気がつきました。
 殺生を禁じる戒律やその歴史、インド・中国・日本の仏教では肉食をどうとらえて来たのか、殺生という罪業感が強めた差別の問題、さらには肉食に関する浄土真宗教団の歩み。これらを自分自身の問題としてもう一度学びなおしたいと思います。
 調べたこと、考えたことを整理します。魚釣りを起点に肉食と殺生について考えるシリーズです。よければお付き合いください。
 違和感、間違い等ありましたら遠慮なくご指摘いただけるとありがたいです。

今後、整理しようと思っている項目 順次追加します

・魚釣りの魅力と問題点
・インド仏教における殺生と肉食
・中国仏教における殺生の発展
・日本での仏教の受容とその展開
・殺生が生み出す差別の歴史と浄土真宗
・現在の仏教界の状況
・魚釣りをどう考えるのか 


1月17日更新


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