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魚釣りから考える肉食と殺生     その2 魚釣りの魅力とその問題点

 「うちは魚釣りはできない。殺生だから」との言葉をきっかけに、仏教の戒律や肉食の歴史を考えるシリーズその2、今回は魚釣りの魅力と問題点を整理します。

・魚釣りの魅力

 魚釣りを始めて感じた魅力は多々あります。
 準備をしている間のワクワク感。魚がかかった時、手元にブルブルと届いた時の興奮。ばらさず抜きあげるまでのドキドキ。持ち帰って食べた魚の新鮮さ・美味しさ。
そうした釣り自体の楽しみに加え、発見が多くあったことも魅力に挙げられます。
 魚の生態といのちの連鎖、釣るための道具の工夫と自然(天気・風・潮汐)を観察する視点、釣った魚の鮮度の維持と運搬、自身で捌く労力や不可食部の廃棄、寄生虫などに留意した調理とその保存など。
 スーパーで買って調理するだけでは気づきにくい面がはっきりすることに加えて、立派な魚を釣ることの難しさから、逆に漁師さんの捕る魚のすごさも再確認できたこともあります。
 当然ながら、釣った魚を食卓に出すとき、私を育むいのちとして、お魚のいのちを頂くことをはっきりと自覚させられます。
 これらがその魅力の大きいところのように思います。

・魚釣りの問題点

 「殺生だから」ということが端的にその問題点を表していますが、ちょっとそれだけでは乱暴に思います。だってみな魚を日常的に食べているんですから。
 おそらくその意味するのは「遊びとして魚のいのちを弄んで殺している」という点であるかと思います。そこが、漁師が生きるための生業として殺生をしている点との決定的な違いである、ということでしょう。
 みずから望んでいのちを奪いに行く、という点。それを少なくともお寺を預かる坊さんがやるなよ。ということでしょうか。

・食べることと殺すこと

 お寺を預かるお坊さんがやるなよ、という言葉にはその仏教の教えと歴史的な発展の理解が求められます。元々、仏教では不殺生戒という「殺すな」という戒めがありました。一方で、現在の日本のお坊さんはほとんどがお肉・魚を食べています。このあたりがわかりにくく思います。このことを次回から整理しようと思います。


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